OGU面冠者
2001.8.12 小倉隆史選手 応援HOMEPAGE 冠者125

先入観をブッ潰せ!選手のわがままで

2001.8.12 使う者と、使われる者
 久々の「冠者」でございます。
 
1996年・冠者30「選手のわがまま」と、1998年・冠者101「試合が始まれば選手のもの」 も、併せてお読み下さい。(私って昔っから同じコトばかり喋っているなーと再認識。でも過去に書いた文章はかなり稚拙に見える...)

 文章というものは書く“きっかけ”がないとなかなか書けないものです。
 書く時間がなかった→忙しかった、ということも勿論ありますが、私の中に占める「小倉隆史重要度」というか、小倉隆史応援モチベーションが若干低下していたのかなー?とも考えられそうです。
 
 私が応援し始めた1995年はFWとしてそれなりの実績・結果を残しています。1996年のあの事故以来、ゴール数・試合出場数・試合出場時間等、小倉本人・我々ファンの、決して満足のいくものではありませんでした。
 個人的に振り返ってみて、1995年、そして『OGU面冠者』を開設した1996年当時に比べて、最近はどうだったか...?
 1995〜1996年頃は、スタジアムに足を運ぶことが殆どなかった代わりとでも申しましょうか、文章は書きまくっていましたね。何かネタを見付けるや否や、速攻、脳味噌で文章組み立てを考えていたような。仕事中も、食事中も、就寝中も...思いつきさえすればメモ書きして、キーボード叩いていました。忙しいとか時間が無いとか、そういうことではなしに、抑え切れない情熱がそこに確実に存在していました。
 
 最近は...いや、もしかしたら...小倉隆史を応援する度合が低下したのではなく、「もしこうだったら」という理想論的空想を具体化することが本能的に虚しくなっただけなのかもしれません。
 他の誰かに、ではなく、自分自身に、自分の書いた文章を評価されるのを、どこかで怖がっていたような...「一人よがりな分析をして、実現するかどうか知れない、現実とかけ離れたことを書いて何の意味がある?」と。そんなことで賛同を得たいがためにHomepageを開設している訳ではない、と.....。
 
 私はこれでも一応、コンビニエンスストアの経営者です。人の上に立つことの長所として、「自分のひらめき=発想=具体的提案を即、現場に反映しやすい」ということがまず挙げられます。勿論、「絶対的に正しいことを提案してナンボ」尚且つ「全てのリスクは上に立つ者=経営者が背負う」ことが大前提ではありますが、こう見えても、自分の勘が的中した時の喜びを(曲がりなりにも)知っているつもりです。
 私ひとりが頑張れば、理想を現実に近付けることの可能な環境がある一方で、自分の理想だけが一人歩きし始める“仮想的空想”...時として、理想と現実との乖離によって「好きだ」という認識すらも希薄になってしまう...だったら、一度、大好きなモノを突き放してみるのもいいかな?と。距離を置いて冷静に見つめるというテもありだろう.....迷うことなく、もっと、しっかり、小倉隆史を応援できるように。
 
 病み上がりの1996年、試合に出ているのになかなか結果を出せなかったのは「仕方ない」と割り切れるとしても、1997年の大手術を経ての1998年以降は、「出場機会さえ与えられて、起用のされ方さえ良ければ、もっともっと結果・実績を残せていたはず」と、本人+ファンは考えたくなりますよね。
 何故、使われないのか?...小倉隆史が他のライバル選手に比べて劣っている、という表現は決して正確ではありません。「その時々における小倉隆史を使う立場の者(=監督)が、自身“絶好調”を謳う小倉隆史を信頼し切れなかったから」こそ、スタメン起用も少なく、途中交代も多く、ベンチ入りしても出番がなかったり、ベンチ入りすらさせてもらえなかったり...(あー書きたくないことばかり)。
 
 人に使われて輝くタイプ。自ら発光して輝くタイプ。
 前者の場合、上の言われるがまま、(得てしてあまり深く考えることなく)忠実に実行していさえすれば、結果がどうであろうと、上には評価されます。結果が出なかったとしても「上の意向だから」「言われたとおりにやっただけ」という逃げ口上さえ与えられます。よって、“そこそこの一流にはなりやすいタイプ”と言えましょう。
 後者の場合...上の立場の人間の能力によって、運命を大きく左右されます。上に立つ立場の者には本来、下にいる者の「能力を引き出す能力」だけではなく、「既に備わっている能力を見出し、使いこなす能力」が、当然求められます。
 時として、“既に備わっている能力”が出世の邪魔をする場合があります...指導を乞うことなくしてスゴくできてしまうヒトよりも、上に言われるがまま動く“そこそこできるヒト”のほうが、上の立場にとっては「使いやすい存在」だからです。なかなか監督色には染まらない「上手い選手は、ウザい選手」とはよく言ったものです。(←※誰も言ってません)
 上にはなかなか認めてもらえないけど、使われ方によってスゴさを発揮する能力の持ち主は、「私にはこういう具体案があり、実現して見せます」と直訴して、成功したら、超一流となり、万人に認められる存在ともなり得ましょうが、失敗したら...また1からやり直し→新天地模索、もしくはあきらめる.....(あー考えたくない)。
 
 私は小倉隆史ではないので、彼がそこらへんをどう考えているのかはわかりませんが、彼が「起用されたいがために監督に“従順”になるタイプ」とは、どうしても考えることができません。従順になる、のではなく、上の立場=監督の意向を最大限に尊重しているからこそ、「試合に誰が出るかを決めるのは監督」という彼のセリフがあるのでしょう。
 しかし一方で彼は
「試合が始まれば試合は選手のもの」とも言っています。→「試合そのものは監督ではなく、選手=小倉隆史のわがままを最大限に発揮する場」という想いが彼自身の“サッカー大好き”の根幹にあるのではないか?と。(今でも、左足一本で試合をコントロールする感覚を彼の左足は忘れていないはずです。)
 そういう小倉隆史に対して、ここ数年彼を使ってきた歴代監督が、彼をどれだけ尊重して見せてきたでしょうか。監督自身の先入観や固定観念で「小倉隆史のわがまま」を否定し兼ねないような布陣を敷き、結局それで自らの首をも締めるような結果しか出せず、「所詮監督も、上に使われる身でしかない」ということを、自らを犠牲にして証明したに過ぎなかったのではないでしょうか.....。
 
 一度(と言わず、二度、三度.....)、小倉隆史の掲げる構想を試していただきたい。
 以下はその、私の考えた、あくまでも一例です...「例えば」のおはなし。
 
 ただ単に上にケチを付けたり、陰で愚痴ったりすることは、誰にでもできることだし、誰しもがやっていること。そんなことを彼にして欲しくないし、彼も望んではいないはず。
 本当に「自ら発光して輝きたい」のであれば、上に立つ者を越える具体案を提示し、実現に向けて最大限協力してもらえるよう理解を求める代わりに「必ず結果を出す」という約束をする。
 それに基づき、実現可能な環境を整えられるだけ整えたら...そう、「これで結果が出なかったら、小倉隆史が悪い」と断定できる位にまで、良い意味で、小倉隆史を追い込む...。
 小倉隆史のわがままを通したら、球団として、サッカー選手として、本当に結果が出るのかどうか。とどのつまり、小倉隆史は正しいのか、本当にスゴいのかどうか。スゴいなら、どこまでスゴいのか.....。
 小倉隆史と心中する!と言わんばかりの、彼を絶大に支持し、彼を十二分に使いこなせる監督にめぐり逢えたら、一気に道が拓けます。が、そうではなく、反小倉隆史的な監督に“認めさせる”ことから始まるシナリオがあってもいいはず。
 「しょーもない監督」と見切りを付ける能力も、真の一流選手であれば、備わっていて然りではありますが...。

 今の監督がおそらく抱いているであろう先入観だけではなく...「ケガして以来、日本代表のお呼びがかからなくなったけど、今もなお応援し続ける根強いファンは結構いる」という先入観をもブッ潰していただきたいものです。


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