「あの時の…《お兄ちゃん》は…大ちゃんだったんやね!」隆は涙を滝の如く流しつつ大成に向かって叫んだ。
「俺も気が付かなかった…全然。そんな昔のこと忘れていたし。生きてきて何もいいことなんかなかった、って思っていたけど…探してみると、結構見つかるものなのかもしれない…。嫌なことはずっと覚えているのに…」
「僕もあの時はとても楽しかった。大ちゃんに買ってもらったあのボールでどれだけサッカーやったことか。新しいボールを買っても、捨てられなかったなー…。お礼を言いたくて…ずっとずっと、心に引っ掛かっていたんや」
「不思議なつながりが…あるよな、俺達」大成はそのボールを床に落とし、右足を軽く載せたままコロコロ転がした。
「うん…でも最初に大ちゃんを見た時、感じるモンがあったのは…確かなんや!」
「実は俺も…話しかけるつもりだった。先を越されたんだ、お前に」そう言って大成は隆の方へボールを転がした。
隆はボールに触れるとすぐにヒョイと胸まで揚げ、膝・頭・背中…と、リフティングを始めた。
「上手いじゃん」プロに向かって言う台詞ではない。
「この位は…」
「さすがだな」隆がボールを操っているようには見えなかった。まるで隆の《ペット》のようだった。お互いにじゃれ合い、意気投合していた。正直、羨ましかった。
「練習…したんや。このボールでね。友達と、何回とか何分とか…。そうそう、大ちゃん…病気、って…」
「あ、ああ…腎臓だよ」
「腎臓って…オシッコ作る…ここ?」隆はリフティングをやめて、横腹を指差した。
「そう。生まれつき、腎臓が弱くて…。あの頃、もう人工透析していた。病院が自分ん家みたいだったなー」
「人工透析って…そんなに悪かったんやね…。でも、今は?」
「自分の腎臓は、摘出した。父親の腎臓がひとつ、俺の体の中に入っている。中学に入学してすぐに手術したんだ。それが成功して…今は、普通の生活には支障ない。俺も、話してやるよ。題して、《芽室大成物語》!」
隆は少し笑って拍手した。《ペット》も……
……一九七五年五月二二日……
芽室大成、五歳の誕生日。病院のベッドの上で平仮名の書き取り練習をしながら、大成はプレゼントを心待ちにしていた。
「お・と・お・さ・ん…お・か・あ・さ・ん…め・む・ろ・た・い・せ・い…」
「大成くん、どうだい、具合は」大成が病院の中で一番好きな医院長先生が訪れた。「お、偉いねー。上手く書けてるよ。あ、でも…」先生は自分のボールペンで《おとうさん》と書いてみせた。
「ここ、《お》じゃなくて、《う》なの?でも、《おとおさん》って、言うよ!」
「でもね、《おとうさん》が正しいんだ」
「じゃあ…違うのが、正しいんだ。正しいのが、正しくない時も、あるんだ!」
「…う、うん…」先生はうなづくのに少し戸惑った。
「おー、大成!元気かー!」
「あ!おと…おとお…おとう…あれ?判らなくなっちゃった…」
「呼ぶ時は、《おとおさん》で、いいんだよ!」先生は大成を混乱させてしまったことを《おとうさん》に申し訳なく思った。
先生は大成の父に頭を下げて、頭を掻きながら病室を後にした。
「大成、誕生日…おめでとう!」父はバースデーケーキを大成の膝の上に載せた。
「ありがとう!」大成はそおっと箱を開け始めた。「ね、お母さんは?」
父は一瞬大成から目線をそらし、小さく溜め息をついた。そして大成の細い両腕を握りしめ、じっと見つめた。「大成…お母さんは…もう…おうちに…帰って来ないんだ」
「…どうして?」大成は手を止めて父を見た。
「お父さんと、お母さんは…離ればなれに暮らすことになったんだ」
「…僕は…?」
「大成は、お父さんと一緒に暮らすんだ」
「じゃ、じゃあ…僕、もう…お母さんに会えないの?」大成はうつむいた。
父は目を閉じて唇を噛んだ。「今日から…大成にはもう…お母さんは、いないんだよ!」
大成は薄々判っていた。自分が病気だから、お金がいっぱいかかる。それでお母さんはいなくなっちゃったんだ、と。そんなふうに割り切ったこともあり、この時大成は涙ひとつ見せなかった。「うん、判った!でも…お父さんは…いなくならないでね!」
「当たり前だろ!ずっとずっと、お前と一緒だ!」
父親のその一言が大成に笑顔を取り戻させた。「ねえねえ、プレゼントは?」……
……「五歳の誕生日プレゼントは、でっかい熊のぬいぐるみと、両親の離婚。十歳は、隆にこのボールを買って終わり」大成は口を尖らせて、テーブルの上でボールを指で弾いた。隆の横にポロッと落ちた。
隆は椅子に座ったままそれを左足で受け、ポンと頭に揚げてヘディングをツンツン続け、額で静止させた。「僕と一緒にサッカーできて、楽しい!最高のプレゼント!…って、言ってたやん!」
「冗談だよ、冗談」はしゃぐボールを見つめて「…やっぱ、上手いよ。認める。もっとやって!」
「だから…」……
……一九七五年五月二三日……
大成は幼稚園に通っていない。病気のせいもあって、友達を作る機会に恵まれなかった。でもただひとり、話し相手がいた。
「カズちゃん…僕のお母さん…いなくなっちゃった…」
《カズちゃん》は医院長先生の息子。大成よりもひとつ年上。いわゆる《神童》である。来年小学一年生…この時既に方程式を解き、英語を喋り、大人顔負けの漢字混じりの文章を読み書きする脳味噌が頭に詰まっていた。
「帰ってこないんだって…お母さん…」
カズちゃんは幼児らしからぬ冷静な面持ちで「そうか…大成はお母さん、好きだったんだ…」
「大好きだったよ!でも…お父さんも大好き!だから…いいの」
「いい?…ホントに?」
「うん…」
「でも、帰って来て欲しいんだろ?」
大成は暫く考えた。「お父さんだけで、大丈夫!」
カズちゃんは大成の心を見透かしていた。「大成のお母さんは…そうだな、例えば…大成が死にそうになったら、帰って来るんじゃないか?」
「僕が…死んじゃえば…いいの?」
「いくら何でも死ねば、帰ってくると思うよ」
「ね、ね、カズちゃん…どうやれば死ねるの?」
「黙っていても大成は死ぬかもしれないんだよ。すぐに死なないように、ベッドで寝て、治療しているんじゃないか」
「でも…病院で寝ているだけじゃ、お母さん…帰って来ないもん…僕…いつ、死ぬの?」
「それは僕にも判らないよ」
「僕…死にたい!お母さんに…会いたい!」
「大成、嘘ついたな。さっきはお父さんだけで大丈夫、って…」
「やっぱり会いたい!お母さんに…会いたい!ね、教えてよ!僕…どうやれば死ねるの?」
大成に《死》の恐怖を教えてあげなければならない…と思ったカズちゃん。「よし、判った。そこのタオル、持って」カズちゃんは枕許に置いてあったタオルを指差した。
「これ?…どうするの?」
「首に巻き付けてみな」
大成はタオルの両端を握り、右手を頭の後ろに持っていって首に巻いた。「こう?」
「そのまま、思いっきり、タオルを引っ張ってみて」
大成はタオルをギュッと握り、首を締め付けた。「く、苦しいよ…」
「それをズーッとやっていれば、死ねるよ」
「ま、まだ…?」大成の顔が赤くなってきた。
「もっと、もっと…」
大成は手を緩めた。ハアハアと息を切らしながら「ね、もっと…簡単に死ねるやつ、教えて!苦しいのは…嫌!」
「死ぬのは…大変なんだぞ」
「まだあるんでしょ?教えてよ!」
「ちょっと待ってろ」カズちゃんは病室を出た。戻って来ると、手にカッターナイフを持っていた。「これで…ここ、切ってみな」大成の左手首を指差した。
「切ると…痛くない?血…出るんじゃない?」
「痛いし、血がドーッと流れるよ。血がいっぱい出るから、死ねるんじゃないか」
「そんなの嫌だ!」
「…だろ?死ぬなんて、やめろ。大成にはできないよ」……
……「ちょーっと待った!」隆は大成の昔話を中断した。「その、カズちゃんって…飛んでもない奴やないか?死ねば帰って来る、とか、黙ってても死ぬ、とか…ガキの言うことやあらへん!」
「頭良かったから…。親切で教えてくれたんだよ」
「大ちゃんも大ちゃんや。言うこと真に受けて…自殺の真似事して…」
「バカだったんだよなー…。お母さんに、よっぽど会いたかったんだろうな…。カズちゃん、全部判っていたんだ」
「僕…カズちゃん、好きになれない!」……
……その夜、大成の夢にお母さんが出てきた。お母さんはニッコリ笑って、大成と手をつないで歩いていた。
ふと目が覚めると、真っ暗で誰もいなかった。「お母さーん…」叫ぶと涙が出てきた。ベッドから下りてスリッパを履き、窓を開けた。星が滲んでキラキラ輝いて見えた。「どこにいるの?お母さん…お母さーん…」
思い出した。…そうだ、お母さんは…お母さんは、僕が死ねば、僕に会いに来るんだ!血が出て痛いのは嫌だけど、タオルで首を締めて苦しいのをちょっと我慢すれば…。でも両手で引っ張るやり方だと途中で駄目になっちゃう…。大成は一生懸命考えた。
「タオルを首に巻いて、僕が手で引っ張るんじゃなくて…うーん、どうしよう…」大成はタオルを持ったままつぶやき、部屋の中を見回した。
窓の上にカーテンレールがあった。「あそこ!」大成は椅子を窓際に運び、カーテンレールにタオルを掛けて、端を結んだ。が、タオルは短い。「これじゃ、僕の頭、入らない…」
再び部屋を見回す。今度は床を這う《延長コード》に着目。コンセントを外し、カーテンレールに掛け、結んだ。「これなら…入る!やったね!」笑って、大成はコードの輪に首を入れた。「うーん、えっと…どうしよう…」暫く考えて、大成は椅子から飛び降りた。
引力が大成を引っ張った。カズちゃんには遠く及ばないが、幼い大成にしてはグッドアイデア、上出来だった。…が、大成の体重が邪魔をした。
大成は尻餅をついた。カーテンレールが《く》の字にグニャッと曲がり、窓枠から外れ落ちた。
「い、痛い…」でも大成はこの失敗を無駄にしなかった。「そっか、そう、そうだ!落ちればいいんだ!」
大成は尻を手で押さえながらゆっくりと立ち上がり、窓の外を見下ろした。「こ、恐いけど…ここから、下に…」大成の病室は地上五階。
倒れた椅子を立て直し、窓への踏み台に利用した。右の足の裏を窓の縁へ置いた。「下を見るから、恐いんだ…」目をギュッとつぶり、両手を挙げてカーテンレールなき窓の上枠を握り、左足を踏み出した。
「お…お母さん…」声も体も震えていた。冷たい夜風もそのアシストをした。
大成の背後から力が加わった。
…後押し、の反対の力だった。
気が付くと、大成はまた、尻餅をついていた。
「バカ!バカ野郎!」カズちゃんだった。カズちゃんが大成の腹をギュッと抱えていた。
「大成!お前が死んだら…お母さんは帰って来るかもしれないけど…死んだら、お前は…お母さんには会えないんだぞ!」
「…え?…だって、カズちゃん…死んだら会える、って…」
「だから…お前、勘違いしているんじゃないかと思って…教えに来たんじゃないか!」
「…死ぬ、って…何なの?どういうことなの?」
「死んだら、死んじゃったら…お母さんどころか、お父さんにだって、会えなくなっちゃうんだぞ!体を燃やされて、骨だけになって、お墓の下の土の中に、埋められちゃうんだぞ!」
大成は背筋がゾクッとした。やっと、死ぬ恐さとその意味を悟った。「カズちゃん…そんなこと…そんなこと…言わなかったじゃないか!」大成はゲンコツで思いっきりカズちゃんをボカボカぶった。ワーワーと声を挙げて泣いた。「死にたくない!死にたくないよ!…僕、死にたくない!」……
……「毎日のように泣いてた、それからずっと。死ぬのが物凄く恐くなった。死に対して過敏になった。ちょっと具合が悪くなると、このまま死んじゃうかもしれない、って…。俺、カズちゃんに感謝している。カズちゃんのおかげで、死ぬことだけは考えずに生きて来れた。親父はその後再婚して、《お母さん》って呼べる人はできたけど…でも…やっぱり会いたいじゃない?だから…」大成は隆に一瞥を与えた。「隆、こん位で泣くなよ!」
隆はグシュグシュ言いながら涙を拭っていた。「か、可哀想…大ちゃん…」
「もっと泣かしてやろうか?…親父、去年…死んだ!」
隆はピタッと泣くのをやめた。が、一時停止に過ぎなかった。「ウワーン!!」
大成は隆の泣く姿を何となく他人事のようにじっと眺めた。…昔、どこかで見たことのある泣き方だ…。「親父は今でも、俺の体の中で生きている…ほら」服をめくり上げて腎臓移植の手術跡を隆に見せた。
「ウオー!!」抱えているボールも泣いているかのように濡れた。
大成は涙まみれのボールを隆から取り、ティッシュで軽く拭いてから、「一、二…。一、二、三…できないよなー…」リフティングのビギナーがプロをチラッと見た。まだ泣いていた。「一、二、三、四、五…。おっ、五回、できたぞ!」また見た。
プロもチラッとビギナーを見た。
「一、二、三、四…。一、二…。一、二、三…駄目だー!くそ…。一、二、三、四…」
「五、六、七、八、九、十!」ビギナーが外して床に落ちそうになったボールを見事に右足で拾い、カウントを続け、プロはビギナーにつないだ。
「おっ…十二、十三…」
「十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十!」
「まだ…やんのかよ…、二十三、二十四、二十五、二十…」
「六!二十七、二十八、二十九、三十!」
「…面白い…楽しいよ!…思い出した、俺…」ビギナーは四・五回がやっとだった。
「三十五、三十六、三十七、三十八…僕も…楽しいよ!大ちゃん、それ!」プロからビギナーへ、小さな弧を描いたパスがつながった。
…歳を重ねてもなお現役のサッカーボールはこの時、久し振りに二人の《ペット》になった。…空が青く晴れ渡った、あのまぶしい夏の日のように…。
次の日、大成の体に異変が起きた。
ベッドでうなる大成に、隆「た、大ちゃん!ど…どうしたんや?大丈夫?」
「ウ…ウウー…起きれない…」
「きゅ…きゅ…救急車!」
「あ、あー…いい…いいんだ…」
「…へ?」
「き…きん…筋肉痛…」
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