隆が、スランプに陥っている。
オリンピック代表の親善試合で、九〇分間フル出場しているにもかかわらず、ノーゴール続き。結果が出ない。
隆はストライカー…《点取り屋》である。シュートを放ち、ゴールを決めることこそが隆の仕事。点を取ってナンボ、イコール彼の評価。
勿論、最前線のFW(フォワード)のみを責めるのは酷だが、味方が折角作ったチャンスをどうしてもモノにできない…。
オーストラリア遠征から帰ってきた隆を、大成が出迎えた。「お帰り。…どうした?元気、ないじゃん…」
「う、うん…」そっけない表情で荷物を大成に手渡した。
「風呂、沸いてるけど…」
「うん…いい」
「夜、どうする?カレーじゃ、嫌だろ?」
「…要らない」
益々心配になったが、それ以上何も話しかけることができなかった。隆の後ろ姿は、物寂しい灰色の靄に覆われているかのようだった。
カバンから洗濯物を取り出して残ったものは、水色の包装紙に包まれた、柔らかな大小がふたつ。「ぬいぐるみ、かな…」隆の部屋の前まで行き、ノックしようとしたがその寸前でやめた。「後で、いいや…リビングに置いておこう…」
ドアの向こうから、電話のベルの音がした。今まで聞いたことのない電子音。「携帯電話?…あいつ、携帯なんか持ってたんだ…」盗み聞きする趣味のない大成は速やかにその場を去った。
時は三月、まだまだ寒い日が続くが、もう春だ。二週間後には三年目のJリーグ開幕。
大成は、さわ子と笑子のマンションに来た。
「そう、黒岩くん…元気ないのね」笑子は大成にコーヒーを入れる。
「スランプっていうのは、一流選手が必ずぶち当たる壁なのよ!スランプを乗り越えてこそ、一流なのよ!黒岩キュンに、頑張って!って、伝えておいて!」全快したさわ子が興奮気味に叫んだ。
「あ、はい…」
「カレー、温まったわー」笑子はガスを止めた。
「あいつ、結局朝も食わなくてさー…いっぱい作ったのに。サツマイモ入りだぞ」
「私達が、平らげましょう!」
「あわわー、美味しそー!」笑子はおたまでサツマイモをすくい上げ、指をくわえた。
「そうそう、芽室くん、聞いてよ!私達、さっき…」
「あ、あーあーそうそう、そうなのよ!」
コーヒーカップを持ったまま、大成「ん?」
「会っちゃったのよ!」
「会ったのよ!偶然…ね、さわ子!」
「…誰に?」
「あわわわわ…」
「ふふふふふ…富良野…瑛美!」
「ふ、ふらの…えみ?富良野瑛美って、あの…?」
「そうよ!あの、女優の!」笑子は富良野瑛美のサイン色紙を自慢気に大成に見せた。
「映画賞総ナメの、富良野瑛美!」
「へぇー、凄いねー!…俺、実は…ちょっと、ちょーっとだけ、ファンなんだよなー」
「いいでしょー!」
「私も、ほらー!」さわ子も見せびらかした。
「嫌だなー…俺は芸能人のサインごときで驚きゃしないよ」大成は目を閉じて、右手を振った。
「ふーん…芽室くんって、結構冷めてるのね」
笑子はもう一枚、色紙を取り出した。「芽室さんの分も書いてもらったのに…名前も入ってるのになー…」
「くれ!」大成は態度を瞬時に豹変させて、両手を差し出した。
大成は駅前のスーパーマーケットのトイレに駆け込み、色紙を出してニタニタと、「へ…へへへ…うひひひひ…瑛美ちゃーん…むふふふふ…俺もマジックと色紙、持って歩こうかなー…そうだよな、有名人だって、俺達と同じ空気を吸って、同じ土の上を歩いているんだもんな。誰か、いないかなー…俺も会いたい!…隆にこれを見せたら、少しは元気になるかな?…関係、ないか…」
大成は、気付いていない。大成の殆ど全ての行動を動機付けているのが隆だということを。何をするにしてもまず念頭に置かれるのが隆になっている。自分のことすらまともに考えようとしなかった男が、他の誰かのために生きている。おそらくそれは、もはや《生き甲斐》と呼ぶに相応しい。
銀河の隆への想いとは明らかに異なっている。が、見方によっては紙一重のようでもある。大成も銀河も、隆の笑顔が好きで、常にどうすれば隆が喜ぶかを考えている。銀河は隆に愛され愛し合って体の交わりを持つという叶えがたい《夢》がある。大成は隆に自己の観察を依頼し、世界中誰もかも敵視する自分を変えたいという《夢》を叶えつつある。
《見返り》を求めないのが本当の愛だ、というきれいごとを信じている人もいる。でも、人間なんて生き物は所詮欲望のかたまりでしかなく、取捨選択の判断基準は結局、自分の役に立つか立たないか、だけで十分である。要らないモノも、要らないヒトも、邪魔なら捨てる。捨てたくても状況がそれを許さず、仕方なく《ゴミ》を嫌々持ち続け、新陳代謝できずにどんどんたまるのが、ストレス。捨てるモノ(ヒト)が何もない人が強い理由がここにある。
自分のことだけを考えて生きればよい。そうすることによって同時に他の誰かのためになれば、結果オーライじゃないか。そんなふうに、《上手な新陳代謝》を実現させてくれようとしているのが、黒岩隆である。大成は《無意識》のうちに、己に利益をもたらしてくれる人間に、ささやかでも何かを《還元》したいと考えている。これだけで、隆と出会ったばかりの頃の彼自身との差がはっきりと判る。無意識こそが、今の大成の自然体なのだ。
大成が買い物を済ませて帰宅した。ちょうど隆が外出するところだった。「あ、出かけるのか?」
「うん…」隆はまだ少し暗かった。
大成は思い切って、「隆、これ…誰のサインだと思う?」
隆は少しびっくりした表情になった。「…あ…、それ…」富良野瑛美のサイン色紙をじっと見つめた。
「へへーん、富良野瑛美だぞ!富良野、瑛美!」
隆は何も言わずに目をキョロキョロさせた。そして、やっと少し笑った。
それを見て大成は心の中でガッツポーズをとった。…よし!もう大丈夫…。
「ね、大ちゃん…」
「ん?」
「ここに、僕がサインしてあげようか?」隆は色紙の余白を指差した。
「…へ?」大成は一瞬、隆の言ったことを理解し得なかった。「バ、バ、バカヤロー!バカ言ってんじゃねーよ!何でお前がサインするんだよ!汚(けが)れるじゃないか!」眉を逆ハの字につり上げ、色紙を奪い返した。
「ね、ね、…僕だって一応、プロのサッカー選手なんやけど…」
大成はフッと我にかえった。「あ、そっか。言われてみれば、そうだよな。隆も一応、有名人なんだ。うんうん…」
「プレミア付くよ、きっと」
「ダメ!要らん!早く出かけろ!」大成はサインをギュッと抱きしめた。
隆の携帯電話が鳴った。「もしもし…、うん、今から出るわ。…え?」隆は大成をチラッと見た。「ヤバいやろーそれはー…」隆はパカーと口を開けたまま、眉間にしわを寄せて数秒の沈黙。「判った、うん…」電話を切った。
大成は思わず聞いてしまった。「誰から?」
隆は黙って、大成の胸のあたりを指差した。
「…は?」隆が何を指し示したか、判らない大成。
「…んじゃ、行ってきます。今日…夜は…もしかしたら…うーん…せやけど…」
「何なんだよ、訳判んねー」
「…晩飯、作らなくていい」
「食べてくるのか?」
「…ううん、ここで食べる…ことに…なるんだろうなー」
「…あ?」
「夕方には戻るから。…プレミア付くからね!じゃ、宜しく!」隆は後ろ向きに手を振って出ていった。
大成は首を傾げながら独り言。「…何だかよく判らないけど、ま、ちっとは元気になったみたいだから、ま、いっか。やっぱり瑛美ちゃんの力って、凄いんだなー!ありがとー、瑛美ちゃーん!」両腕をピンと張って頭の上にサインを掲げ上げた。
隆が謎の外出をして約一時間後、子供のおやつの時間あたり。今度は一般回線の電話が鳴った。
「もしもし…黒岩です」もう自分の名字を名乗らなくなっていた。
「あ、あのー…千歳と申しますが…」
「ちとせ…さん?」
「隆、いますか?」
「いや…えーと、今、外出してます」
「明日…練習夕方からですよね?」
「…え?…す、すみません…判り兼ねますが…」
「失礼ですが…あなたは…」
「あ、あのー…芽室…です。芽室、大成…隆の留守を任されております」
「へー、あいつ…お偉い身分になったもんだなー…」千歳という男は急に口調を変えた。「隆に、伝えておいてもらえます?明日正午きっかり、リョクチで待ってる…来なかったら帰る、と」
「正午に…リョクチ?」
「そこのすぐ近くのミナト…リョクチって言えば判るから」
「ミナト…?」
「じゃ、宜しく」
大成にとって至極不可解な電話であった。リョクチ・ミナトが近所にあることも、千歳という超有名某プロスポーツ選手のことも、大成は知らない。首を傾げつつメモに記した。
「プーちゃん!お久し振り!」
その直後、里朝がやって来た。大成の顔の筋肉が弛緩する。瞬間ホッと温かい気分になった。「いらっしゃいませー!」
「やだぁ…コンビニみたい…もう!」
「昔、バイトやったことあるんだ…三日間!」里朝の背後を人影が覆うと、大成は笑顔を真顔に変え、眉にキュッと力を入れた。
「大成…久し振りだな」彼は大成に話しかけた。
「え?…な、何?…は?」大成は彼を認識することができない。
「カズ…プーちゃんのこと、知ってるの?」里朝は彼の袖を掴みながら言った。
「カズ…?」大成は目をキョロキョロさせた。
「俺はお前に、ずっとずっと申し訳ないと思い続けていた。また会えて、嬉しいよ」彼は大成に近づき、抱き寄せた。
「ちょ…ちょっと…待った!」大成は彼の手を振り払った。「あなた…何者ですか?」
彼は咳払いをひとつしてから「お前を自殺に追い込んだ張本人だ」
「あ…あ…あー!…カ、カズ…カズちゃん?カズちゃん!」
彼の名は剣淵和政。二〇年前、大成に《死ねばお母さんに会える》という助言を与えた男。再び大成を抱きしめて「お前のためなら、何でもやる。償いをしたいんだ。本当だ。信じてくれ」
「い、いいよ…別に…むしろ感謝している位だから」
「感謝?」
「あのおかげで、生きて来れた。死を避けるようにして…どうにか生きて来れた」
「違う!違うんだ!」
「…え?」
和政は更にきつく大成を抱きしめた。「興味津々だった…どういう反応するのか、って…。あまりにも素直に言うこときくから…面白がっていたんだ。でもまさか…窓から飛び降りようとすることまでは予測できなかった…」
「カズ…ちゃん…」大成は少し呼吸が苦しくなっていた。
「あの後、すぐにドイツに留学して…ずっとずっと心に引っ掛かっていた…。お願いだ、大成…俺に、償わせてくれ!」
「わ、判った…判ったから…」大成は必死に和政を突き放した。
「ありがとう…」和政は大成をじっと見つめた。
「ふーん、カズとプーちゃん、幼馴染の知り合いだったのねー…だからプーちゃんに会いたがったんだ…」里朝は腕を組んでうなづいた。「プーちゃん、私達、これから…デートなのよー!」
大成はハッとした。急に鼓動が早まった。「…デ、デート…?」
「そうよ!ねー、カズー、どこに行こうかー…」
和政はそれまで以上に表情を強ばらせて言った。「隆に、伝えてくれ…《順調に大きくなっている》と…」
里朝は笑顔を一気に曇らせ、和政を見た。
「大きく…?」
和政は大成に背を向けて立ち去った。
「ね、ね、里朝ちゃん…何が大きくなってるの?」
里朝は無理して笑顔を作り直した。「じゃ、プーちゃん…また来るから…」小走りに部屋を出ていった。
大成はさっきの続きにメモ書きした。「何のことだか、さっぱり判らない!」
ボールペンを床に投げ付け、ペタンと座り込んだ。数秒後、ハイハイ歩きをしてキッチンへ行き、「…あー!酒!酒飲むぞー!!」大成は冷蔵庫に向かって叫んだ。
「大ちゃん!ね、大ちゃん!大ちゃん!」
「起きないわね」
「うん…」
「私、今日《芽室大成さんへ》ってサイン書いたのよ。女の子に頼まれて」
「喜んどったよー…めちゃくちゃ。…あ!」
「…何?」
「オーストラリアのおみやげ。…カバンは…あ、あの中や!」隆は指差しつつカバンの方へ向かい、中身を取り出した。
「随分大きいわね…開けていい?」
「ええよ」
「…あ、…コアラ!」
「可愛いやろ!」
「うん…。ね、そっちの小さいのは?」
「あ、これは大ちゃんの。それの、小さいやつ」
「どうして差、付けたの?」
「大ちゃんは男やから…」
「なーんだ。がっかりだわ…」
「ん?」
「隆…」
「何?」
「愛してる」
「…何や、いきなり…」
「好き」
「…僕も…好きや。愛しとる」
隆の《好き》の一言が大成の鍵穴に突き刺さった。大成が左目を大きく開けて見たものは…。
大きなコアラ越しに、二人は目を閉じ、唇を重ねていた。お互いの首へと腕を伸ばし、舌が絡まり合う…。
大成はいつの間にか両目と口を開けてその光景をはっきりと頭に焼き付けていた。無意識のうちに舌先がピクピクと上下運動を始めていた。
長い長い愛の証がフェードアウト。
「私と、大成さん…どっちの方が好き?」
「…比べられへんよ。どっちもおんなじ位、大事やから。どっちが上とか下とかじゃなしに…」
「つまんない」
「瑛美とサッカー、どっちを取る?…っていうのと同じや」
「私、男の友情ってすっごく憧れているの。それが…この小さなコアラなのね。もし私の方が小さかったら…ちょっと悔しいわ…」
「関係あらへんって」
「じゃあ同じ大きさにすれば、よかったのに…」
「だから…大きさで優劣、付けてへんから…」隆はニコッと笑った。「大ちゃんよりも、サッカーよりも、じゃなしに…瑛美のこと、愛してるから…心配、要らないよ」
「富良野瑛美!心配させてやるー!」大成はムクッと起き上がり、瑛美を指差して叫んだ。
「たたた…大ちゃん!」
「来い!俺達も愛を確かめ合うんだ!」大成は立ち上がり、隆の手首を強く掴んで、トイレへ連れ込んだ。
「大ちゃん…お酒…」
「うるさい!…何で俺の方が小さいんだよー!俺も大きい方が良かった!」
「…ご、ごめん…大ちゃんには可愛過ぎると思って…」
「差付けやがって…」
「だから…違うって…」
「んにゃろー…見せ付けやがって…っざーけんなよっ…ってんだ…」
「大ちゃん…何かあったの?」
「へん!…お前と…富良野瑛美が付き合ってたなんて…大大大スクープだな!…で、何だって?俺も好きだって?富良野瑛美とおーんなじ位…?まー光栄だねー…ハハハ…サンキューベルマッチョ!」大成は跳躍して抱き付くことによって、隆との約一五センチの身長差を解消した。隆の腰を両足で、側頭部を両手で、それぞれ挟み引き寄せた。準備完了…。
「…ちょ、ちょっと…え?」隆は何となく嫌な予感がした。
「だったら、おーんなじこと、してもらいましょうか?…その、富良野瑛美の生ツバが、たーっぷり付いている唇で!」
…芽室大成、生涯二人目の同性とのキス…。彼の言うようにおそらくまだ混ざり合っているであろう唾液を力の限りにチューッと吸い上げ続けた。隆は懸命に抵抗したが、酔っ払いのクソ力にはかなわない…。
急に大成が脱力して、便座の上にちょうど座る格好になった。
隆は息を切らせながら軽く口を袖で拭った。「大ちゃん!大ちゃん!…」
「瑛美瑛美瑛美瑛美瑛美瑛美瑛美…」念仏のように寝言を唱えながら大成は深い眠りに入ろうとしていた。
「んもう…しゃあないなー…」隆は大成を負ぶってトイレを出た。
そこに瑛美が立っていた。「大…丈…夫…?」心配そうに尋ねた。
「…何とか…ちょっと待ってて…置いてくる…」
「うん…」
隆は少し安心した。「大ちゃんも、酒飲んで無茶してメチャクチャになること、あるんやなー…。物事を何でも、もろ真正面から、まっすぐに受け止めちゃって…人一倍マジになって考えて…気ぃ遣って…。でも、そんなんばっかじゃ、やってられへんよね、大ちゃん…。頑張ってもさ、うまくいかないことだって、あるんだよね…。いいんや、たまには…こんなんでもさ…」
いつの間にか、大成の念仏の内容が変化して隆の耳元に届いていた。「里朝里朝里朝里朝里朝里朝里朝里朝…」
「大ちゃん…もしかして…」隆は立ち止まり、暫くそれを聞いていた。
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