……一九七七年七月六日……
黒岩隆、四歳の誕生日。
当時、黒岩一家は、東京都世田谷区の二子玉川園のマンションに住んでいた。
両親に買ってもらったプレゼントを持って、隆は多摩川のほとりに向かった。
「隆…誕生日かぁ…」
「いいなー…それ」
「へへへ…」ピカピカのサッカーボールを小脇に抱えて、隆は自分の髪を撫でた。
「それ…どうやって遊ぶんだよ…投げるのか?」
「ううん…蹴飛ばすんだって」
「蹴るの…?汚れちゃうね」
「…いいよ!あとできれいに磨くから…やろう!」隆は新品のボールを草の上にポトッと落とした。数秒ジッと眺めて、左の爪先でチョンとつっ突いた。記念すべき、ファースト・キック…。
隆はこの日、人生四年間の中で一番体を激しく動かした。ヘトヘトになって、大の字になって草むらに寝っ転がってみた。雲ひとつない、青い空がそこにあった。気持ちいいとか楽しいとか嬉しいとか、まだよく判らなかった…でも隆は笑っていた。「サッカー、かぁ…」
「さ…か…あ…?」
「さっ…かぁ…」
「そう…サッカー!」仰向けになったまま、隆は隣にボールをポンと投げた。
「…疲れたけど…面白かったね!」彼はもう一人にボールを投げた。
「うん…面白かったよ!隆、明日もやろう!」
ボールは小さな虹を描いて、隆の額に直撃した。ファースト・ヘディング…?「いたっ!痛い!…痛いよ!もう…」
隆は二人に大笑い。つられて、隆も小さな口を精一杯大きく開けて、大きな声で笑った。
隆は友達とさよならしてからも、ボールを蹴り続けていた。当然、まだボールしか見ることができない…蹴っている間はボール以外、隆の狭い視野に入ることはなかった。
隆は、ある女性に正面からドンとぶつかってしまった。
「あっ…」ボールは堤防を転がり落ちた。隆はボールを追いかけようと四、五歩踏み出したが、振り返って女性を見上げた。隆が泥まみれだったため、女性の服は汚れていた。
「…ご…ごめん…なさい…」隆は顔を赤くしてうつむいた。
女性はニコッと笑って、「いい…いいのよ。気にしないで。ほら、ボール…取りに行かなきゃ」
「…う、うん…」隆はうなづいて、再び堤防を下った。
幸い、草があまり深く生えていなかったため、ボールはすぐに見つかった。が…、隆はこの時、飛んでもないモノをも見つけてしまった…。
「あの箱…何が入っているのかなぁ…」隆はボールを抱えてダンボールにゆっくりと近付き、覗いてみた。
「あ…あ…あ…あか…あか…あか…ちゃん?」隆は人指し指で、スヤスヤ寝ている赤ちゃんの頬を触ろうとしたが、汚れていることに気付いてサッと引っ込めた。
「おか…おかあ…さん…あかちゃん…おかあさん…おかーさーん!」隆は今下ってきた傾斜を一気に駆け上がった。
「ど…どうしたの?」さっきの女性が話しかけた。
「赤ちゃん!赤ちゃんがあそこにいるの!ぼ、僕…お母さん呼んで来る!」……
……一九九五年二月某日……
「何で…そんな話、俺にするんだよ」大成は、昔話をしている隆に問った。
「……その…赤ちゃんが…」隆は下を向いた。
「…赤ちゃん…?」
隆は一瞬大成を見て、再びうつむいた。「…里朝なんや…」
「…え?い、今…何て言ったんだ?」大成は聞き直して、隆の頭頂部をじっと見た。
「…里朝は…里朝は…僕が…見つけて…うちで引き取って…育てたんや…」
大成は口をポカンと開けたまま、立ち上がった。「じょ、冗談…う、嘘…嘘…だろ?」
隆は首を横に振った。「里朝は…妹…妹、だけど…血はつながっていないんや…」
「そ…そんな…そんなことが…そんなバカなことがあるのかよ…」
「里朝が、プーちゃんに、このこと…話してくれって…」
大成はペタリと床に座り込んだ。
「きちんと、正面から、プーちゃんに見て欲しい、って…」
大成は黙り込んだまま、体の動きを止めていた。少ししてから、口だけがパクパクと開閉し始めた。「…強い…強いよな…里朝ちゃん…。そうなんだ、そうか…。真実をしっかりと受け止めて、生きているんだ…」
「僕の妹やから、里朝は」
「…妹…妹…妹…」大成は繰り返した。
「うん、妹!」隆の唇がピンと張った。
「…ああ、そうだな。ホントの兄妹…いや、《ホント》なんて余計なモン、くっ付けなくていい…兄妹、兄妹!なんだよな…。可哀相、じゃ…ないんだよな!」
「やっぱり。きっとそんなふうに言うやろなーって、思ってた」
「《やっぱり》…?」
「うん、やっぱり。里朝も…きっと…」
「やっぱり…」
隆は大成のそばに行って、背中をパンパンと叩いた。「やっぱり!」
二人は目線をピッタリ合わせて、笑った。
それ以上、言葉は不要だった。衝撃は大きかったものの、既に大成の中では、単なる里朝の過去の事実のひとつとして、安易に消化されてしまった。これ以上、これについて論ずる必要は、ない。
従って、話題は容易に切り替わった。「そっかー…。隆は、バースデープレゼントでサッカーボールをもらって…それで現在に至る訳か…」
「うん…。でもねー、そのボール…」
「…え?」
「今は…ないんや…もう…」隆は表情を少し曇らせた。
「…ま、仕方ないだろ。二十年近くも前のことなんだから」
「ううん…」
「…何だよ…?」
「つぶされちゃったんや…トラックに…」
「ト、トラ…トラックに…?」大成の、ある記憶が呼び覚まされようとしていた。
隆の昔話が再開する…。
……一九八〇年五月某日……
「んもう…里朝!どこ蹴ってんだよ!」
「ごめーん…」
隆と里朝は《兄妹サッカー》をして遊んでいた。が、隆は物足りなさを感じていた。
「お前とじゃ、やっぱり駄目だな!」
「えー…」里朝は頬を膨らませた。「帰る!お引っ越し、手伝う!」
「お、おい…待てよ!」隆は里朝を追いかけた。
里朝は堤防を乗り越えて、トコトコ行ってしまった。
「ひとりで帰れるのかよー」隆がそう呼びかけた時、既に里朝は見えなくなっていた。隆は立ち止まった。
隆はあきらめて、ひとりでボールを蹴り始めた。暫く続けたが、つまらなかった。全然楽しくなかった。里朝に文句を言いながらやっていた方がまだマシだった。
「くそー!」隆は里朝が消えた方向に向かってボールを蹴り揚げた。堤防を越えて、向こう側へ飛んでいった。「あーあ…」
六歳にしては素晴らしいキック力だったが…突然《ボン!》という大きな音がした。
隆は急いで堤防を駆け登った。
…隆を出迎えたのは、つぶれたサッカーボールと、つぶしたトラックだった。
「ウワーン!!!」隆は上を向いて、思いっきり大声を挙げて泣き始めた。
「あーあ…」ひとりの少年がペシャンコになったボールを拾い上げた。「どうすんの…お父さん…」
「いやー…参ったなー…」彼の父親が頭をかきながら出てきた。
「仕事、あるんでしょ?…いいよ。お金、ちょうだい」
「え?」
「弁償!弁償しなくちゃ!…俺のは、いいよ…」
「だ、だって…お前…」
「いいよ…。俺も…サッカーやりたくなった!」
「…できないだろ!」
「いいじゃん!少しだけなら…」
少し躊躇してから父親はGパンのポケットから札を取り出して、少年に渡した。
「あとは、任せて…。電車で帰るから、心配しないで!」
「…済まないな…。じゃ、頼むわ!」父親は、まだ泣いている隆の頭を撫でつつ、「ぼく…ごめんな!」トラックに乗り、クラクションを軽く鳴らして、その場を去っていった。
「行こう!」少年は隆につぶれたボールを手渡した。「もう泣くなよ…新しいボール、買うんだから…」
隆は少年に手を引っ張られて歩き始めた。
二人が二子玉川園の駅に着いた頃、漸く隆は泣き止み始めた。
「君は…サッカー、好き?」少年が隆に話しかけた。
「うん…好きだよ!」ヒクヒクしながら隆は答えた。
「いいなー…。俺…サッカーなんか、できないから…」
「どうして?」
「激しい運動、やっちゃいけないんだ」
「…何で?」
「うん…病気、だから…」
「ふーん…」
「でも…今日は、いいんだ。ねえ、ボール買ったら、サッカー、一緒にやってくれる?」
「うん!いいよ!やろうやろう!」隆はやっと笑った。
「その前に…ハンバーガー、食べようよ!」少年は目の前のハンバーガーショップを指差した。
「うん!食べよう食べよう!」隆は飛び跳ねて喜んだ。
「僕ね、大きくなったら、サッカー選手になるの!」
「ふーん、そっかー…」
「沢山練習して、うーんと頑張って、いっぱい、いっぱい、いーっぱい…点を取るの!」
「いいなー…きっと、なれるよ!」
「僕が試合に出たら、観に来てね!お兄ちゃんも…」
「ああ…行く…行くから、その時には、ちゃんと呼んでくれよ!」
「うん!」隆は大きくうなづいた。「…美味しいね、これ…」
「うん…」
「お兄ちゃん、食べ物で何が好き?」
「そーねー…やっぱり、カレーライスかなー…」
「カレー?…あ、僕も好きだよ!」
「辛ーいのだぞ」
「…僕はまだ、甘口しか食べれないけど…。今度から中辛にしようかな…」
「カレーは、辛くなきゃ…」
「僕も辛いの、食べれるようになりたい!」
「そーだなー…サッカー選手になる頃には、食べれるんじゃないか?そーだ!君がサッカー選手になったら、俺が物凄く辛いカレー、作って食べさせてあげる!」
「ホント!…楽しみだなー…よーし、絶対に、サッカー選手になるゾー!」
少年は買いたての新しいサッカーボールを隆に手渡した。
「ありがとう!じゃあ、これは…要らないね…」隆はつぶれたボールをゴミ箱に捨てた。「ね、ね、早くやろう!」今度は隆が少年の手を引っ張った。
「うん、やろう!」
再び多摩川へ二人は向かい、草の上でニューボールを追いかけた。その少年にとっては生まれて初めてのサッカーだった。
数分後、少年は息を切らして座り込んだ。
「お、お兄ちゃん…どうしたの?」
「ハハハ…いやー、君…上手だねー…」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。今日は、最高の誕生日だなー…」
「え?…お兄ちゃん…今日、誕生日なの?」
「うん。今日で、十歳」
「おめでとー!」隆は拍手した。
「ありがとう。こんなに楽しいんだ、サッカーって」
「そうでしょ?楽しいでしょ?」
「楽しいねー…」少年は仰向けになった。青空が彼を祝福した。
「じゃあ…もしかして…このサッカーボール…ホントは…お兄ちゃんの誕生日プレゼント…」隆は少年の顔の上にボールを差し出した。
「いいんだ。君が俺に、プレゼント…くれたから」
「え?僕…お兄ちゃんに、何もあげてないよ」
「一緒にサッカー、やってくれただろ?それが…君から俺への、最高のプレゼント!」
二人はコクリとうなづき合って、笑った。……
……再び、一九九五年二月某日……
「僕は次の日、こっちに引っ越して来たから…その人とはそれっきりで、会ってないんやけど。名前も聞いていないんだよなー…。でも、会いたいなー…どこにいるんだろう…」
「た、隆…」
「ん?」
「そ、その…ボール…まだ持っているのか?」
「うん!あるよ!」隆は立ち上がり、戸棚を開けて箱を取り出した。「これ…」箱の中から、傷だらけではあるがよく手入れのしてあるサッカーボールが出てきた。隆は大成に手渡した。「辛い時や、くじけそうになった時、このボールを磨くんや。そうすると、元気が出てくる…僕のお守りみたいなモンやな」
「チーズバーガー…」ボールを見ながら、大成が一言。
「…え?」
「お前、チーズバーガーとコーラとポテト、頼んだんだよな?」
「…た、大…ちゃん…?」
「つぶれたボールはゴム製だったのに…革のいいやつ、買わせたんだよな!」
「…う、嘘…」隆は目に涙を溜め始めた。
「俺は、約束…守ったぞ。カレーライス、作って食べさせたんだから。お前のサッカー、早く見せてくれよ!」
「た、大ちゃん…」隆は大成の左肩に額を押し当て、大成の服をビショビショに濡らした。
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