オグるまだん吉くん OGUmen-STORY  
閉ざされたノンフィクション
〜秘密の封印〜

知内星護

第8話 一九八〇年五月二二日

 ……一九七七年七月六日……

 黒岩隆、四歳の誕生日。

 当時、黒岩一家は、東京都世田谷区の二子玉川園のマンションに住んでいた。

 両親に買ってもらったプレゼントを持って、隆は多摩川のほとりに向かった。

「隆…誕生日かぁ…」

「いいなー…それ」

「へへへ…」ピカピカのサッカーボールを小脇に抱えて、隆は自分の髪を撫でた。

「それ…どうやって遊ぶんだよ…投げるのか?」

「ううん…蹴飛ばすんだって」

「蹴るの…?汚れちゃうね」

「…いいよ!あとできれいに磨くから…やろう!」隆は新品のボールを草の上にポトッと落とした。数秒ジッと眺めて、左の爪先でチョンとつっ突いた。記念すべき、ファースト・キック…。

 隆はこの日、人生四年間の中で一番体を激しく動かした。ヘトヘトになって、大の字になって草むらに寝っ転がってみた。雲ひとつない、青い空がそこにあった。気持ちいいとか楽しいとか嬉しいとか、まだよく判らなかった…でも隆は笑っていた。「サッカー、かぁ…」

「さ…か…あ…?」

「さっ…かぁ…」

「そう…サッカー!」仰向けになったまま、隆は隣にボールをポンと投げた。

「…疲れたけど…面白かったね!」彼はもう一人にボールを投げた。

「うん…面白かったよ!隆、明日もやろう!」

 ボールは小さな虹を描いて、隆の額に直撃した。ファースト・ヘディング…?「いたっ!痛い!…痛いよ!もう…」

 隆は二人に大笑い。つられて、隆も小さな口を精一杯大きく開けて、大きな声で笑った。

 隆は友達とさよならしてからも、ボールを蹴り続けていた。当然、まだボールしか見ることができない…蹴っている間はボール以外、隆の狭い視野に入ることはなかった。

 隆は、ある女性に正面からドンとぶつかってしまった。

「あっ…」ボールは堤防を転がり落ちた。隆はボールを追いかけようと四、五歩踏み出したが、振り返って女性を見上げた。隆が泥まみれだったため、女性の服は汚れていた。

「…ご…ごめん…なさい…」隆は顔を赤くしてうつむいた。

 女性はニコッと笑って、「いい…いいのよ。気にしないで。ほら、ボール…取りに行かなきゃ」

「…う、うん…」隆はうなづいて、再び堤防を下った。

 幸い、草があまり深く生えていなかったため、ボールはすぐに見つかった。が…、隆はこの時、飛んでもないモノをも見つけてしまった…。

「あの箱…何が入っているのかなぁ…」隆はボールを抱えてダンボールにゆっくりと近付き、覗いてみた。

「あ…あ…あ…あか…あか…あか…ちゃん?」隆は人指し指で、スヤスヤ寝ている赤ちゃんの頬を触ろうとしたが、汚れていることに気付いてサッと引っ込めた。

「おか…おかあ…さん…あかちゃん…おかあさん…おかーさーん!」隆は今下ってきた傾斜を一気に駆け上がった。

「ど…どうしたの?」さっきの女性が話しかけた。

「赤ちゃん!赤ちゃんがあそこにいるの!ぼ、僕…お母さん呼んで来る!」……

 ……一九九五年二月某日……

「何で…そんな話、俺にするんだよ」大成は、昔話をしている隆に問った。

「……その…赤ちゃんが…」隆は下を向いた。

「…赤ちゃん…?」

 隆は一瞬大成を見て、再びうつむいた。「…里朝なんや…」

「…え?い、今…何て言ったんだ?」大成は聞き直して、隆の頭頂部をじっと見た。

「…里朝は…里朝は…僕が…見つけて…うちで引き取って…育てたんや…」

 大成は口をポカンと開けたまま、立ち上がった。「じょ、冗談…う、嘘…嘘…だろ?」

 隆は首を横に振った。「里朝は…妹…妹、だけど…血はつながっていないんや…」

「そ…そんな…そんなことが…そんなバカなことがあるのかよ…」

「里朝が、プーちゃんに、このこと…話してくれって…」

 大成はペタリと床に座り込んだ。

「きちんと、正面から、プーちゃんに見て欲しい、って…」

 大成は黙り込んだまま、体の動きを止めていた。少ししてから、口だけがパクパクと開閉し始めた。「…強い…強いよな…里朝ちゃん…。そうなんだ、そうか…。真実をしっかりと受け止めて、生きているんだ…」

「僕の妹やから、里朝は」

「…妹…妹…妹…」大成は繰り返した。

「うん、妹!」隆の唇がピンと張った。

「…ああ、そうだな。ホントの兄妹…いや、《ホント》なんて余計なモン、くっ付けなくていい…兄妹、兄妹!なんだよな…。可哀相、じゃ…ないんだよな!」

「やっぱり。きっとそんなふうに言うやろなーって、思ってた」

「《やっぱり》…?」

「うん、やっぱり。里朝も…きっと…」

「やっぱり…」

 隆は大成のそばに行って、背中をパンパンと叩いた。「やっぱり!」

 二人は目線をピッタリ合わせて、笑った。

 それ以上、言葉は不要だった。衝撃は大きかったものの、既に大成の中では、単なる里朝の過去の事実のひとつとして、安易に消化されてしまった。これ以上、これについて論ずる必要は、ない。

 従って、話題は容易に切り替わった。「そっかー…。隆は、バースデープレゼントでサッカーボールをもらって…それで現在に至る訳か…」

「うん…。でもねー、そのボール…」

「…え?」

「今は…ないんや…もう…」隆は表情を少し曇らせた。

「…ま、仕方ないだろ。二十年近くも前のことなんだから」

「ううん…」

「…何だよ…?」

「つぶされちゃったんや…トラックに…」

「ト、トラ…トラックに…?」大成の、ある記憶が呼び覚まされようとしていた。

 隆の昔話が再開する…。

 ……一九八〇年五月某日……

「んもう…里朝!どこ蹴ってんだよ!」

「ごめーん…」

 隆と里朝は《兄妹サッカー》をして遊んでいた。が、隆は物足りなさを感じていた。

「お前とじゃ、やっぱり駄目だな!」

「えー…」里朝は頬を膨らませた。「帰る!お引っ越し、手伝う!」

「お、おい…待てよ!」隆は里朝を追いかけた。

 里朝は堤防を乗り越えて、トコトコ行ってしまった。

「ひとりで帰れるのかよー」隆がそう呼びかけた時、既に里朝は見えなくなっていた。隆は立ち止まった。

 隆はあきらめて、ひとりでボールを蹴り始めた。暫く続けたが、つまらなかった。全然楽しくなかった。里朝に文句を言いながらやっていた方がまだマシだった。

「くそー!」隆は里朝が消えた方向に向かってボールを蹴り揚げた。堤防を越えて、向こう側へ飛んでいった。「あーあ…」

 六歳にしては素晴らしいキック力だったが…突然《ボン!》という大きな音がした。

 隆は急いで堤防を駆け登った。

 …隆を出迎えたのは、つぶれたサッカーボールと、つぶしたトラックだった。

「ウワーン!!!」隆は上を向いて、思いっきり大声を挙げて泣き始めた。

「あーあ…」ひとりの少年がペシャンコになったボールを拾い上げた。「どうすんの…お父さん…」

「いやー…参ったなー…」彼の父親が頭をかきながら出てきた。

「仕事、あるんでしょ?…いいよ。お金、ちょうだい」

「え?」

「弁償!弁償しなくちゃ!…俺のは、いいよ…」

「だ、だって…お前…」

「いいよ…。俺も…サッカーやりたくなった!」

「…できないだろ!」

「いいじゃん!少しだけなら…」

 少し躊躇してから父親はGパンのポケットから札を取り出して、少年に渡した。

「あとは、任せて…。電車で帰るから、心配しないで!」

「…済まないな…。じゃ、頼むわ!」父親は、まだ泣いている隆の頭を撫でつつ、「ぼく…ごめんな!」トラックに乗り、クラクションを軽く鳴らして、その場を去っていった。

「行こう!」少年は隆につぶれたボールを手渡した。「もう泣くなよ…新しいボール、買うんだから…」

 隆は少年に手を引っ張られて歩き始めた。

 二人が二子玉川園の駅に着いた頃、漸く隆は泣き止み始めた。

「君は…サッカー、好き?」少年が隆に話しかけた。

「うん…好きだよ!」ヒクヒクしながら隆は答えた。

「いいなー…。俺…サッカーなんか、できないから…」

「どうして?」

「激しい運動、やっちゃいけないんだ」

「…何で?」

「うん…病気、だから…」

「ふーん…」

「でも…今日は、いいんだ。ねえ、ボール買ったら、サッカー、一緒にやってくれる?」

「うん!いいよ!やろうやろう!」隆はやっと笑った。

「その前に…ハンバーガー、食べようよ!」少年は目の前のハンバーガーショップを指差した。

「うん!食べよう食べよう!」隆は飛び跳ねて喜んだ。

「僕ね、大きくなったら、サッカー選手になるの!」

「ふーん、そっかー…」

「沢山練習して、うーんと頑張って、いっぱい、いっぱい、いーっぱい…点を取るの!」

「いいなー…きっと、なれるよ!」

「僕が試合に出たら、観に来てね!お兄ちゃんも…」

「ああ…行く…行くから、その時には、ちゃんと呼んでくれよ!」

「うん!」隆は大きくうなづいた。「…美味しいね、これ…」

「うん…」

「お兄ちゃん、食べ物で何が好き?」

「そーねー…やっぱり、カレーライスかなー…」

「カレー?…あ、僕も好きだよ!」

「辛ーいのだぞ」

「…僕はまだ、甘口しか食べれないけど…。今度から中辛にしようかな…」

「カレーは、辛くなきゃ…」

「僕も辛いの、食べれるようになりたい!」

「そーだなー…サッカー選手になる頃には、食べれるんじゃないか?そーだ!君がサッカー選手になったら、俺が物凄く辛いカレー、作って食べさせてあげる!」

「ホント!…楽しみだなー…よーし、絶対に、サッカー選手になるゾー!」

 少年は買いたての新しいサッカーボールを隆に手渡した。

「ありがとう!じゃあ、これは…要らないね…」隆はつぶれたボールをゴミ箱に捨てた。「ね、ね、早くやろう!」今度は隆が少年の手を引っ張った。

「うん、やろう!」

 再び多摩川へ二人は向かい、草の上でニューボールを追いかけた。その少年にとっては生まれて初めてのサッカーだった。

 数分後、少年は息を切らして座り込んだ。

「お、お兄ちゃん…どうしたの?」

「ハハハ…いやー、君…上手だねー…」

「大丈夫?」

「大丈夫だよ。今日は、最高の誕生日だなー…」

「え?…お兄ちゃん…今日、誕生日なの?」

「うん。今日で、十歳」

「おめでとー!」隆は拍手した。

「ありがとう。こんなに楽しいんだ、サッカーって」

「そうでしょ?楽しいでしょ?」

「楽しいねー…」少年は仰向けになった。青空が彼を祝福した。

「じゃあ…もしかして…このサッカーボール…ホントは…お兄ちゃんの誕生日プレゼント…」隆は少年の顔の上にボールを差し出した。

「いいんだ。君が俺に、プレゼント…くれたから」

「え?僕…お兄ちゃんに、何もあげてないよ」

「一緒にサッカー、やってくれただろ?それが…君から俺への、最高のプレゼント!」

 二人はコクリとうなづき合って、笑った。……

 ……再び、一九九五年二月某日……

「僕は次の日、こっちに引っ越して来たから…その人とはそれっきりで、会ってないんやけど。名前も聞いていないんだよなー…。でも、会いたいなー…どこにいるんだろう…」

「た、隆…」

「ん?」

「そ、その…ボール…まだ持っているのか?」

「うん!あるよ!」隆は立ち上がり、戸棚を開けて箱を取り出した。「これ…」箱の中から、傷だらけではあるがよく手入れのしてあるサッカーボールが出てきた。隆は大成に手渡した。「辛い時や、くじけそうになった時、このボールを磨くんや。そうすると、元気が出てくる…僕のお守りみたいなモンやな」

「チーズバーガー…」ボールを見ながら、大成が一言。

「…え?」

「お前、チーズバーガーとコーラとポテト、頼んだんだよな?」

「…た、大…ちゃん…?」

「つぶれたボールはゴム製だったのに…革のいいやつ、買わせたんだよな!」

「…う、嘘…」隆は目に涙を溜め始めた。

「俺は、約束…守ったぞ。カレーライス、作って食べさせたんだから。お前のサッカー、早く見せてくれよ!」

「た、大ちゃん…」隆は大成の左肩に額を押し当て、大成の服をビショビショに濡らした。

【つづく】


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