隆の《邸宅》には元々、黒岩家の家族四人が暮らしていた。両親は現在、北海道でのんびりと牧場経営をしながら悠々自適の生活を送っている。この邸宅は、団地住まいだった大成にしてみれば、相当に広い。まるでそれが当然であるかの如く、大成にも一部屋割り当てられ、夜は独りで寝ている。
隆が、泣いた。出会ってからずっと笑っていたあの隆が泣いた。泣かせたのは大成だ。しかしそれ以前に、大成がまだ窺い知ることのできない兄妹の《秘密》の存在があった。隆は何を恐れているのだろうか。出会ってまだ二日しか経っていない芽室大成を失うこと?そんな単純なことではなさそうだ。妹・里朝が、兄・隆の何らかの《弱み》を握っていて、それが明らかにされること?明らかにされた時、隆は一体、どんな不利益を被るというのだろうか?…あれやこれや、考えているうちにいつの間にか深い眠りに入る大成だった。
朝、大成が目覚めた時、既に隆は昨日のカレーの残りを自分で温めて、パンと一緒に食べていた。
「あ、信じらんなーい!隆、カレーはご飯と一緒に食べなきゃ…。パンなんか邪道だゾ!」
「僕、朝はパンなの!」水色のトレーニングウェアを着た隆が答えた。
「ご飯まだ余っている…よな!俺は、カレー《ライス》にしよっと」
「大ちゃんって…カレー、大好きみたいやね」
「うん、カレーさえあれば生きていける。今日の夜は…久しぶりに…ホウレン草カレーにでもするか?」
ゲッ!という表情を一瞬して、隆「ほ…ホウレン草…?カレーもいいけど、僕…ホウレン草なら…おひたしが…ええなー…」
「隆、カレー嫌いか?」
「い、いや、いやいや!そ、そんなこと…ないよ。カレーは…大好き!特に、大ちゃんのカレーは…めちゃくちゃ美味かったなー!」
「そうか?じゃあ、ホウレン草のおひたしに…カボチャカレーにしよう!」
「…た、大ちゃん…」どう見ても拒絶の表情の隆、しかし大成にそれは伝わっていない。
「カボチャの甘味が意外にもマッチするんだなこれが」
「大ちゃん…カレー…じゃ…ない…方が…いい…なー…」
「え?…カレー、嫌?」
「いやいや、いや…」
「嫌なんだな!」
「いやいやいや…いや…その《いや》じゃなくて、嫌の反対…」
「じゃあ、いいんだな!」
「いや!」
「どっちなんだよ!」
「だ、だから…大ちゃんのカレーは美味しいよ!嫌じゃない!でも…今日の夜もカレーっていうのは…」
「嫌なんだな!」
「…はい…できれば…。シェフ・芽室大成の、別のレパートリーをご披露願います」
「…ごめん。俺、カレー以外に…料理らしい料理、何もできないんだ…」
「…あ…、そ、そうなの…」寂しげに下を向く隆。
「だから…カレーで…いいでしょ?」不気味に微笑みながら大成は両手を合わせた。
「…あかん!」突然、声高になった隆。「大ちゃん、僕は…サッカー選手や!食事は、基本!基本なんや!カレーライスで一流になったスポーツ選手なんて、聞いたこと、ある?ないやろ!」
「は、はあ…」目を点にして大成は隆の演説を聞き入った。
「僕が、更なる発展向上を目指すに当たって、栄養管理は必要不可欠!大ちゃん、厳しい注文だってことは十分承知の上や!今日の夜は是非、《豪華な食事》をお願いしたい!」
「ご、ごーかなしょくじぃー?…何作ればいいんだよ!」
「六大栄養素プラス食物繊維!かつ目にも鼻にも口にも美味しいやつ!」
「お、お前なぁ…言うのは簡単だよ!」
「信じているよ!大ちゃんならできるって!」
「ヨイショすれば何でもやると…思っているだろ!図星だな!」
「うん!」大きくうなずく隆。「大丈夫、僕、好き嫌いないから。味の許容範囲、広いよ!」
「あーそーですか。はいはい判りました。やりゃあいいんだろ!やりますよ!ごーかにね…《豪華な食事》ですね!金、多めに置いてけよ!…見てろ!ギャフンと言わせてやるからな!覚悟して待ってろ!」
「楽しみにしているよ!」
大成は、復活した隆の笑顔が嬉しかった。
隆が練習に行ってから、大成は帯広さわ子の入院している病院へと向かった。
「…という訳なんだよ」大成はさわ子に今朝のことを話した。
「いいなー…私が作ってあげたい!黒岩キューン!」
「作ってもらいたいよ、ホント。早く元気になってくれよ!」
「なりたいわよ!なれるもんなら…。ね、もし、私が元気になったら、黒岩キュンのお手伝いさん、私と代わってくれない?」
「…そりゃ、いいけど…。隆の妹と上手くやっていけるか?」
「あー!そうだ…やだやだ!顔も見たくない!最悪のクソ女!」
「そんなにひどいのか?」
「ひどいなんてモンじゃないわよ!あのドブス豚!」
「…俺、電話で少し話しただけだから…顔は知らないけど…」
「芽室くん、気を付けた方がいいわよ!何仕出かすか判らないから…。多分、何のかんのとイチャモンつけてきて、邪魔するのよ!いじめられるわよ!」
「…ま、適当にやるよ。深入りしない方が、いいみたいだから…」
「あのイカゲソタコ女がいなければ…黒岩キューンと《おいでまラブラブファイヤー》なのにぃ…」
「おいでまらぶらぶ…?」
「さわ子!また勝手に言葉作ってる!」淡谷笑子が来た。
「あ、あわちゃん!お早う!」大成は軽く右手を挙げた。
「あー、芽室さん!来てたのねー!あわわわわ…」笑子は二度、ジャンプした。
「笑子、手伝ってあげてよ。芽室くん、今日の夜、黒岩キュンに《豪華な食事》のおもてなしをしなくちゃいけないんだって」
「え?豪華な食事?」
「全く、贅沢な奴だよ。スポーツ選手はカレーじゃ駄目なんだとよ」
「カレー?私、カレー大好き!」
「だろ?カレー、最高だよなー!」
「うーん。芽室さん、カレー作るの?」
「作る作る!カレーだけなら結構バリエーションあるぞ!思いつきでそこら辺にあるモノを適当に入れて、味を変えて…。俺のカレーは、同じ味が二度ないんだ。作る毎に味が違う。その時しか味わえないカレー!これぞ醍醐味!」
「やー…面白そう…私も食べたーい!」
「でも…隆が嫌なんだって。カレーじゃ一流になれないって」
「あー…そ、そうかもしれなーい…でも私、芽室さんのカレー、食べたーい!食べさせてぇー!」笑子は大成の袖を掴んだ。
「昨日の残りでよければまだあるけど…来る?来て、手伝って欲しいんだけど…」
「え、来る?…って、黒岩くんの…?」
「そう。俺一人じゃ、できそうにないし」
「や、やだー!黒岩くん家に…入れるのー!あわわわわわわわわわ…」
「いいなー…。私も黒岩キュン家に行って、お料理したい!」
「病人は、寝ていなさい!」笑子がさわ子を冷たく諭した。「嬉しいなー!」
「俺の後をつけた甲斐があったな!」大成の意地悪な一言。
「もー…それは言わないでぇー!あわわわわ!」笑子は大成の背中をバチッと叩いた。「でもー…私なんかがお邪魔して…いいのかなー?」
「いいのいいの!無理言ってるのは隆の方なんだから。認めさせる!」
「やったー!…じゃあ、メニュー考えなきゃね!…予算は?」
「二万円!あと…確か、六大栄養素と…繊維質?だったかな。あとは美味しけりゃいいんだと!」
三人の話し合いが始まった。
全ての準備が整ったのは、日が暮れてからだった。
「いやー、あわちゃんのおかげで、何とかできたね!」
「このカレー…美味しいわー!また作ってね!」
「これだけあれば隆も文句ないだろう!」
「ね、これ…隠し味に何使っているの?」
「早く帰ってこないかなー…」
「にんにく?あと…リンゴ?」
「リンゴ…ミカン…ブドウ…これはちょっと安易だったな」
「えー?ミカンとブドウも入っているの?」
「あ?何言っているんだよ。この、フルーツの盛り付け。これ!」
「え?あ…あーあわわわ…勘違いしてたわー。あまりにも芽室さんのカレーライスが美味しかったもんで…失礼しました…あわ」
「ね、あわちゃんって…人前で、泣いたこと、ある?」急に話題を変える大成。
「え?…泣く?…私?…小さい頃ならよく…」
「俺と隆、もうお互いに、相手の前で一回ずつ泣いているんだ」
「え?…だって、まだ会って何日も経ってないのに…」
「判らない、理由は。大人になると、泣くことなんて、何回もないよね?ましてや人前で…あいつの前で、泣いちゃったんだ。あいつも、俺の前で泣いた」
「何か悲しいことでもあったの?それとも…喧嘩?」
「うーん…色々、だな。今までは、泣きたくても、泣けなかった。不思議なもんでさ、慣れてくるんだよ、泣かないことに。泣かない泣かない…って思って、泣かないでいると、泣き方を忘れちゃうんだ。あれ?どんな時に泣くんだっけ?って…。久し振りだったな、泣いたの」
「…大変、だったんですねー…」
「大変?…そうかもしれない。感覚が麻痺していたから…喜怒哀楽の感情。どこかで人生、あきらめていたんだろうな。ホントのこと言うと、嬉しかったんだ…」
「嬉しかった…?」
「うん…俺も、人並みに…一丁前に泣けるんだなって。人前で、泣く…ってさ、ある意味で、凄いことだと思うんだ。究極の弱点を見せつける、ってことだろ。弱み、握られたくないじゃない?…だから、泣かせてくれた…、そして泣いてくれた…あいつへの恩返しが、コレ。協力してくれて、サンキュ!」
「いえいえ…どういたしまして。私も、黒岩くん…と、芽室さんのお役に立てて、嬉しいわ!」
「あわちゃんも、早く、堂々と自分の涙を見せられる男の人、見付けなきゃ!」
「やだーもー…。え?もしかして…黒岩くんと芽室さんって…そういう関係なの?芽室さん…そういう趣味、あったんだ…」
「うん、俺、実は…って、そんなことある訳ないだろ!」
この時は、笑子の言っていた《そういう趣味》を目の当たりにすることになろうとは、夢にも思わなかった。
大成は、隆が帰ってくるまでここにいれば?と引き止めたが、笑子はホテルへ帰った。それが1サポーターとしての《けじめ》だと考えて。結果的には、この時笑子が帰ったのは、正しい選択だった。
隆が帰ってきたのは、もう料理の冷め切った夜の九時過ぎだった。少し酔っ払って、しかも同伴者がいた。
「た、ただいまぁー!あ、大ちゃん!紹介するよ!彼、今度新しく、我が、名古屋インパクトセブンに加入することになった、楓銀河くんでぇーす!」
楓銀河…来月が高校の卒業式。最も注目されている大型新人。複数の球団からラブコールを受けたが、本人の強い希望で、名古屋インパクトセブンを選んだ。彼は、大成をきつく睨みつけた。「どうも、楓銀河です」無愛想に一言。
「あ…芽室…大成です…」感じの悪い奴だなーと思いつつ、隆の態度に少し腹が立った。「隆、食事、できてるぞ」
「え?食事?…ごめぇーん、食べてきちゃったよ!」
隆の一言が、大成のダイナマイトの導火線に火を付けた。即、爆発!「な、何ぃ〜!お、お前!…ふざけるなよ!食って来ただぁ〜?これ、これ見ろよ!お前の言った通り、《豪華な食事》!」テーブルの上の、チーズハンバーグ・カボチャのそぼろあんかけ・マーボー豆腐・トロの刺し身・イカそうめん・ホウレン草のおひたし・コールスローサラダ・リンゴとミカンとブドウのフルーツ盛り合わせ・長ネギとわかめの味噌汁・きらら397のご飯…を指差した。
それを見て、隆の酔いは一気に醒めた。「…ご、ごーか…な、しょく…じ…。そうだよな、そんなこと、言ったよな、僕…」
大成は、目の前に広がる《苦労の結晶》の全てを引っ繰り返したくなった(『巨人の星』の如く)。だが、笑子の《あわわ笑い》が脳裏をかすめて、やめた。「あわちゃんと二人で、一生懸命作ったのに…」
隆の表情が一転、厳しくなった。「あわちゃん?…大ちゃん、もしかして…家の中に入れたの?」
「ああ、そうだよ。この《豪華な食事》、一緒に作ったんだ。あわちゃんに、謝れよな!」
「か、勝手に…他人を家に入れないでくれよ!」
「何だとぉー?俺一人で、どうやって《豪華な食事》作れっつーんだよ!作れない、って言っただろ?手伝ってもらう位、いいじゃないか!しかもお前、何だって?お腹一杯で、食えないんだろ!食わないんだろ!それでその態度かよ。やってらんねーよ!」
「ここは…、僕の家だ!」赤鬼のような形相で、隆は怒鳴った。「無断で…僕の知らない人を…家の中に入れるな!」
大成の怒りは頂点を遙かに越えていた。そのため、思考能力が一瞬、ストップした。我に戻り、「隆は今何て言った?嘘だろ?そんなこと、言う訳ない!」と現実を疑ってかかった。大きく息を吸い込み、両手に拳を強く握った。
隆は大成に刺すような目線を浴びせ続けていた。「判った?」
隆のこの台詞が駄目押しとなり、大成は腹を空かせていたことも忘れ、自分の部屋へ引きこもった。返事しないまま…。
「あの人、何者ですか?」楓銀河が隆に問いかけた。
ほんの少し、自分の言動に後悔しつつ、隆は答えた。「…この家の世話してもらっている、…お手伝いさん」
「へー、そうなんですか…。いいんですか?あんなこと言っちゃって。ショック大きかったんじゃないですかねー。どう見ても、黒岩さんの方が悪いと思うけど」そう言って、銀河は大成の部屋へ向かった。
隆は脱力して、ひざまづいた。
銀河は大成の部屋のドアをノックした。「楓銀河です。入ってもいいですか?」
その時、大成は両手で顔を覆い、うつ伏せになっていた。銀河の声は聞こえていたはずだが、認識することができなかった。
銀河はノブを回し、ドアを開けた。鍵は掛かっていなかった。自然と、大成の背中に目線が落ちる。「あのー…」
大成は反応しなかった。……隆に喜んで欲しかった。それだけだった。しかしうまく伝わらなかった。逆に、怒られた。隆の言うように、あわちゃんを家に入れたのは悪いことかもしれない。でも自信があった。ただ無意味に家に入れた訳ではない。確実にその成果はあった。ただ予想外だったのは、隆がその成果を成果として認めてくれなかったために、全てが悪者に転じてしまったこと。認めてくれなかった隆を責めるということは、自分の《手柄》の押し付けに他ならない。お前のために、こんなに苦労して作ったんだぞ!…そんな風に、隆に判ってもらうのがとても虚しく思えた。結局、有難迷惑に終わってしまった…。が、やらなければ良かった、とは考えたくない。それ自体は隆の望んだことであるから、当然だ。隆の気が変わった、だから…それに倣って、俺も…お手柄申請を《却下》しなければならない……。
「お話し、してもいいですか?」銀河は、自分の世界に浸っている大成の左肩を軽く叩いた。
大成はゆっくりと顔を上げた。涙の痕跡はなかった。「あ、君…えーと…」
「楓銀河です。僕の話、聞いてくれますか?」
意外な来客に少し戸惑ったが、「あ、はい…」気持ちの切り換えをしようと努めた。
「さっきは、あなたの方が正しいと思います。同情します」
「…別に、君に同情されても…」
「僕が言いたいのは、そんなことではありません」
「…え?」
「あなたは、何故ここで、黒岩さんと一緒に暮らすことにしたんですか?」
数秒の間を置いて、答えた。「…成り行き、かなー…?」
「成り行き?」
「偶然、出会って…あいつの後、付いて行って…」
「今度は《あいつ》ですか…。さっきは、《お前》って呼んでいましたよね?」
「…おまえ?」
「今さっき、僕のことは《君》って言いましたよね?」
「…意識して…使い分けている訳じゃないけど…」
「もう随分、深い関係みたいですけど…。変な意味じゃなくて」
「…何が言いたいんだ?」
「黒岩さんも、あなたのこと、信頼している」
「…隆が?…俺を?」
「僕は、あなた達のことは何も知りません。知らない人が見れば誰でも、さっきの黒岩さんの一言は、到底理解できない。《黒岩さんが悪い、あなたは可哀相…》そう感じるはずだ」
「だから、…何だよ」
「判りませんか?あなたを信頼しているからこそ、黒岩さんはあんなこと、言えたんですよ。あなたなら、判ってくれる、って…。おそらく、黒岩さん自身もそれに気付いてはいないんじゃないかな?黒岩さん、前もって予め計算して、先を読んで行動するタイプじゃないから。無意識に出た台詞なんでしょうね」
「へー、君は…隆のこと、全てお見通しなんだね」
「当たり前じゃないですか!」
「当たり前?」
「僕、黒岩さんのこと…愛していますから」
大成は声を失った。口をポカンと開けたまま、ストップモーション。
「さっき、成り行き…偶然、とか言ってましたよね?…ふざけるな!!僕が、黒岩さんと、きちんと面と向かって会うために、どれだけの苦労をしてきたと思いますか?サッカーをやれば、黒岩さんに会える…単なるファンじゃない!ただ、好きだ好きだ!って騒いでいるだけじゃ、黒岩さんには認めてもらえない!…黒岩さんに、1サポーターとしてではなく、しっかりと、僕を認識してもらうには、黒岩さんと同じ…黒岩さんがいる場所に行くしかない…それしかないって…そう思って…中学からサッカー始めて…。何もかも、全てを犠牲にして、サッカーだけに集中して…やっと、やっと、やっと!黒岩さんに辿り着いた…。そしたら、あなたが先にいるじゃないですか?…どうして?…何もしなかったあなたが、どうして黒岩さんと同じ…同じ家に住んでいるんですか!?」
大成は、困った。どう切り返せばいいのか、皆目見当がつかなかった。
「しかも、あなたは、もう既に…黒岩さんにとって、なくてはならない存在にまで発展している…。黒岩さんは、あなたを必要としている!…ズルい…ズルいよ!…畜生!畜生!畜生!…」両手をじゅうたんに強く叩きつけながら、銀河は叫び続けた。
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