オグるまだん吉くん OGUmen-STORY  
閉ざされたノンフィクション
〜秘密の封印〜

知内星護

第11話 1711・二九

 翌朝、乱れやつれた形相で大成は目覚めた。頭が痛い。目がまともに開けられない。フラフラする。気持ちが悪い…。世間では俗に《二日酔い》と呼ばれる症状である。

 大成はもうプータローではない。仕事には《責任》がついて回る。隆に朝食を用意しなければならない。目玉焼き・キャベツの千切り・ホットミルク・トースト等々…。普段ならばもう少し早く起きて用意し、隆がジョギングから帰ってくる頃、ちょうどできあがっている。今日は寝坊して…とても間に合いそうにない。

 そうと判っていても、大成は自分のするべきことをきちんと全うしたかった。風呂場に駆け込み、首から上を冷水でビッショリ濡らし、気を引き締めた。「さ…寒い…タオル…」

 バスタオルを頭に載せ、小刻みに震えながら大成はキッチンへ。いきなり寝起きからハプニングに出くわす…ピタリと足を止めて、口をパカンと開け、目前に立つ女性の後ろ姿をジーッと見つめた。

 大成は声を出したかった。しかしこの状況に相応しい台詞が見当たらない。何故なら、彼女がどうしてここにいるのか、皆目見当がつかなかったから…そう、昨日のことを何も覚えていないのである。

 更に驚いたのは、彼女が女優の富良野瑛美だということに気付いてから。サインじゃない、写真じゃない、テレビじゃない、映画じゃない…そこにはモノホンが存在する。生が動くのを目の当たりにしているのだ。

 瑛美がこちらに振り向いた。「あ、お早うございます」

 世界で一番素敵な笑顔を受け止めて、「お…お…お早うございます!」バスタオルをバサッと床に落として、頭を目一杯下げた。

「大丈夫ですか?…体の調子」

「んーもう…直っちゃいました!スッキリすがすがしい朝ですねぇー!ハハハハハ…」

「そうなんですか…隆ったら、これをドーンと出して…二日酔いでバテているだろうからって…じゃ、必要ありませんね」瑛美は薬箱を戸棚にしまった。

 《隆》って呼んでいる…何で?…あれ?昨日…「あーっ!」

 瑛美は突然の大声にびっくりして、手に持っていたフライパンを流しに落とした。「な…何…ですか…?」

「…隆…隆…の…」瑛美を差す大成の人指し指は震えていた。

「隆…が、どうしたんですか?」

 大成の頭の中でふたつの映像が錯綜していた。隆と瑛美のディープ・キス…そしてもうひとつ、隆と…「あー!あー!あー…」頭を抱えて座り込んだ。「俺は…あー…」

 瑛美は大成が全く理解できなかった。「あ、あのー…朝は、パンでいいですか?」

 ゆっくりと瑛美の方を見上げて、「…何でも…いいです…。う、嬉しい…な…。ふ…ふ…富良野さん…お手製の…ブレックファスト…食べれるなんて…ふ…ふふ…ふふふふふ…昨日も…ごちそうさまでした…とても美味しかった…でへへ」唇を舐めながらの大成はもはや尋常ではなかった。

「昨日?昨日は何も…」

「いやいや、ちょっとした独り言ですよ…ひひひひひ…」

 瑛美は大成のことを、少しだけ《恐い》と感じた。

 隆が帰って来た。「あ、大ちゃん、おはよ!」

 大成は隆をチラッと見た途端、顔を背けた。「…おはよ…」

「どう?酔いは残っとらへんのか?」

「…お、おかげさまで…」

「そう、良かったねー…。あ、瑛美、着替えて来るから」

「うん。もう食事、殆どできているから、早く来てね!」

「あ、あのー…俺、お邪魔じゃ…ない?」大成は顔を二人の方に向けずに言った。

「何言ってんのや。昨日のあの元気はどこに…」

「言わないでくれー!思い出したくないー…」

 隆は大成にツカツカと近寄って、そっと耳打ちした。「上手だったよ!」

「バ…バッキャロー!」大成は隆の胸をドンと押した。

 隆は下まぶたに深いシワを作って笑った。大成は照れ臭さを半減させて、漸く自然に笑った。そんな二人を見て、瑛美はやっと一安心した。

 大成はパンにマーガリンを塗り、かじった。

 瑛美はパンにマーガリンを塗り、隆に渡した。「はい」

「ん」隆は極当たり前のようにそれを受け取り、かじった。

「そ…それ、いいなー…」大成は隆の口許をジーッと眺めた。

「ん?」

「…塗りましょうか?大成さんのも…」

「えー?そんなー…悪いですよぉー…」ニタニタ大成。

「何がですか?」

「やっぱり、ねー…隆に悪いからー…」

「…気にせえへんよ、んなこと」隆はホットミルクを飲んだ。

「お前なー、こっちが一生懸命気ぃ遣ってんのに、何だよそれ…」

「瑛美のファンなんやろ!バター位、塗ってもらえばええやん!」

「ブブー、マーガリンです!」

「どっちでもええやろが!」

「ふーん…どっちでも、ねー…。大きくても、小さくても、どっちでも…」

「大ちゃん!まだそんなこと言うとるのか?」

 大成はもうこだわってはいない。が、自分よりも大きなコアラをもらった瑛美のいる目の前で、敢えて深く突っ込もうと決めた。「元々買うつもりなんか、なかったんだろ?メインは瑛美ちゃんで、俺のは《ついで》だったんだろ?」

「そ、そんなこと、あらへん!大ちゃんに別のもの買おうと思ったんやけど、ええもんが見つからなくて…」

「で、小さいの…ね」

「大きいのを買ったら買ったで《こんなにデカいもん、もらってどうするんじゃー!》って文句言うんやないの?」

 うん、その通り、そうだろうな…と大成は思った。実は、小さいコアラを既に気に入っていた。むしろ、大小差を付けたことは正しいと思っている。それは愛の大小の顕れだと、隆にはっきりと言って欲しかった。そしてそれを聞いてはにかむであろう瑛美ちゃんが見たかった。「本当の理由が、聞きたいなー…。大きさの違うコアラをお前からもらった二人がいる前で、はっきりと、ビシーっと、言っちゃってもらえませんかねー…」

 隆の表情が鋭くなる。大成と瑛美は、隆に全く同じ期待をする。

 隆は立ち上がって自分の部屋へ行ってしまった。

「…怒らせたかなー…」大成は、少し言い過ぎたかな?と感じた。

「昨日、私、隆に聞いたんです…《私と大成さん、どっちが好き?》って。でも…比べられない、って…。大きい小さいとは、関係ないって…」

「そういえばあの時そんなようなこと言ってたよなーあいつ。…でも…まあ、それなりにうまくやってるんでしょ?アレを見る限りでは…」

 瑛美は顔を赤くして下を向いた。「でも…隆と一緒にいて、たまに何となく感じることがあるんです。《越えられない壁》のようなもの…。それはもしかして…大成さん…?」

「ちょ、ちょっと…待って下さいよ!俺達はそんな関係じゃありませんよ…確かに、酔った勢いとはいえ、昨日はあんなこと…しちゃいましたが…。でも俺は隆と、ではなく…あなたと…」キスをしたと思っています、とまでは言えなかった。

「《あんなこと》って…何をしたんですか?」

「あ、ご存じでない?あ、知らないんですね…じゃ、知らなくていいです」

「えー…教えて下さいよー…」

 可愛い…大成は益々ファンになってしまった。恋に落ちて、隆と三角関係で対立…というバカなことまで想像してしまった。

 隆が戻ってきた。手にしていたものを大成に渡した。「はい。これでええやろ?暗証番号は、1711…《イ》ンパクト《セブン》の《イレブン》って覚えて」

 隆が大成に手渡したものは、預金通帳と印鑑とキャッシュカード。「ど…どういうことだよ…おい…何だよこれ…」

「瑛美と大ちゃんで差を付けたんだったら、その分埋め合わせせえへんと、信じてくれへんのやろ?僕は、大ちゃんと瑛美を比べたりなんかしてへんのに…。これは僕の全財産や。これからは大ちゃんに、管理してもらう…」

「俺は…俺はこんなこと、望んじゃあいない!こんなもん、要らないよ!」大成は隆に突き返した。

「大丈夫や!大ちゃんなら…」

「責任持てない!」

「お願いや!」

「バッッッカじゃねーか?隆、自分のしようとしていることが、どういうことなのか判ってんのか?…もし、もし俺がこれを、持ち逃げしたら…」

「大ちゃんは、そんなこと…死んでもせえへん。ぜっっったいに!絶対にせえへん!」

 隆のこの一言が、大成の涙腺を刺激した。「ま…まだ…会ってから一箇月も経ってないのに…俺のこと全部判ったような口をきくな!」左手で目頭を押さえた。

「お金を下ろしに行くのは面倒やし、かといって大金を家に置いておくのは物騒やし…」

「毎日、楽しみだったんだ…お前から、一日の生活費をもらうの。それだけで、《あ、俺、信頼されてるんだな!》って…嬉しかった。だから絶対に不正はしたくなかった。買い物したらきちんとレシートとか領収書もらって…家計簿みたいにノートに書いて…。俺のことを信じてくれる…お前を、裏切るような真似は…絶対にしたくなかった!」

「ほら…だから大丈夫や!金額が大きくなるだけや!大ちゃんなら安心して、任せられる!」

「隆…」隆のニコニコした顔を見ていたら、今度は本格的に涙が溢れてきた。

「金庫、買ってもいいか?」

「ええよ。重くてゴッツいやつね!」

 大成と隆は見つめ合い、笑った。

「つまんないつまんないつまんないつまんなーい!」

「瑛美…」

「可愛い…」怒った瑛美ちゃんもス・テ・キ!と大成は思った。

 朝食後暫くして、瑛美は隆の車で名古屋へ向かった。

「隆…今度は私に埋め合わせしてよ」

「え?…何や、今度は瑛美か…」

「通帳を預けちゃうなんて…負けたわ」

「またそーゆーことを言う!勝ち負けやないやろ!」

「でも…羨ましい。大成さんに、正直嫉妬したわ…」

「僕の携帯電話の番号知ってるの、世界中でたった一人だけなんやで!」

「でも…それだけじゃ、ねー…まだ足りないわ…」

「カタチにしないと僕のこと、信じられへんのか?大ちゃんのことを信じとる僕は好きになれへんのか?」

「…私、目標ができたのよ!」

「…え?」

「さっき、隆ん家を出る前に、大成さんに宣戦布告したのよ!」

「何や、それ…」

「教えてあげなーい!私と、大成さんの、ヒ・ミ・ツ!…負けないわ!あ、だから…私と大成さん、差を付けないでよね!同じ条件で戦いたいの!…《戦友》、かな…フフフ。あ、そうだ!」瑛美はシステム手帳を取り出し、ボールペンを走らせた。「これ、大成さんに渡して!」紙を引っ張り、四つ折りにして隆に手渡した。

「何が書いてあるんや?」

「隆の携帯の番号と、愛の!誓いの!戦いの!メッセージよー!…ね、嫉妬した?」

 隆は瑛美の女心をよく理解し得なかった。

 大成は瑛美の《宣戦布告》を心から喜んでいた。「そうか…瑛美ちゃん、隆と…。そりゃいい!最高だ!うんうんうんうん!」

 ……「大成さん、その通帳とハンコとカード、いつか私のモノにしてみせるわ!それまで…大切に、預かっていてよね!隆と…私のために!…私も、大成さん…あなたを信じてみるわ…隆が心底信頼しているあなたを!」……

「友人代表の挨拶、何喋ればいいんだろうなー。服装は…隆に任せよう。それにしても隆の奴、幸せモンだよなー…。俺も、瑛美ちゃんみたいなかわゆーい女性と、愛を育みたいなー…」二人の将来と己の希望に夢をふくらませる大成…。

 隆が我が家に戻って来たのは、正午十分前であった。

「隆!隆!ごめん…言うの忘れてた!」

「な、何?」

「昨日…昨日電話があって…正午にリョクチ・ミナトだって!」

「りょくちみなと…?あ、青子港緑地のことやな…って、電話誰から?」

「え?えーっと…チトセ…千歳さん!」

「千歳…?千歳発朗…タツロー…?」

「は、早く!早くリョクチに行けよ!千歳さん…隆が正午きっかりに来なかったら帰っちゃうって言ってたぞ!」

「わ、判った…あ、そうや!これ…瑛美から」大成に瑛美からのメモ書きを手渡した。「じゃ、行ってきます!」隆は駆け足で再び邸宅を後にした。

 紙を開いて大成の表情がデレデレにだらしなくなったのは、言うまでもない…。「瑛ー美ーちゅわーん…ぐふふふふ!」

 青子港緑地…海に面した公園・広場である。この日はちょうど晴れていて、青い空の下、海はキラキラと輝いていた。青子港緑地は伊勢湾を正面に、左が港、右が砂浜。その砂浜で、犬が飼い主らしき女性とサッカーボールでじゃれ合っていた。もう一人、男性がそばで犬を楽しげに見ている…それが《タツロー》だった。

 隆は緑地の椅子に座り、その光景を暫く眺めていた。

 タツローは隆に気付き、犬とさよならして、ボールを蹴りながら隆の方向へ歩み寄って来た。「久し振りだな…黒岩」

「タツロー…いきなり何の用なんや?」

 タツローが笑顔なのに対し、隆はブスッと無愛想な表情であった。

「来ないと思った。まだ…怒っているのかなーって」

「当たり前や!何年、何十年経とうが…お前は許さへん!」

「まあまあ…黒岩。色々あったけど結局お互いにプロになったんだし…結果オーライでよし、としようじゃないか」タツローは隆の肩をポンと叩いた。

「調子ええこと言うな!」

 タツローは急に険しい顔つきになって「いいや!言ってやる!…黒岩、何だ?お前の去年の無様な成績は…」

 隆は一瞬言葉に詰まった。「お前に言われたくない!」

「実力はイマイチの癖して、人気と知名度は底々あるもんだから…チヤホヤされて、スターに仕立て上げられて…いい気になってるんじゃないのか?」

 隆は両拳をきつく強く握り締め、「そんなことを…言いに来たのか?」

「俺は野球を選択して正しかったと思っている。黒岩…お前もそう思うだろ?」

 前人未到の記録をうち立てた男の言うことは、それなりの重みがあった。隆の奥歯がキリキリと音をたてた。「タツロー…お前は…僕との約束を…」

「約束を守らなかった過去の自分に感謝しているよ」タツローはリフティングを始めた。

「そのボールは…厭味か?」

「いやいや…九年前のあの日を再現しようと思って」

「再現?」

「一応、いい想い出だからなー…。無駄ではなかったとは思っている。付き合ってくれるか?それとも…俺とじゃ嫌か?」

 隆はタツローを睨んだ。「もう…お前のボールは蹴られへん!」

「そうか…じゃ、ま…口だけじゃなく、サッカーの方もせいぜい頑張ってくれや」タツローは隆に背を向けて手を振りながらその場を去った。

 隆は足下に落ちていた石ころを砂浜の方に向かって蹴飛ばした。九年前…この緑地でタツローと出会ったあの日が甦る…。

 ……一九八六年四月、隆は地元の青子中学校に入学し、サッカー部に入った。青子中学サッカー部は当時二九連敗中…はっきり言って弱かった。しかし部の雰囲気は決して悪くはなかった。弱い代わりに縦横の関係がうまくいっており、仲の良さでは体育会系クラブ随一を誇っていた。

 新入部員に対して、部長はこんな挨拶をした。「我が青子中学サッカー部は、ひじょーに、レベルが…低い!従って将来、日本を代表するサッカー選手になろう!なーんて思っている人はおそらくいないとは思うが…もしいたら、転校した方がいい!前例からして、《お!うまい!》という奴でも、居心地良い我がサッカー部の環境に順応して、《楽しくサッカーがやれればいいや!》と言い出して…技術の向上を怠ってしまう!…」

 隆は「違う!」と言いたかった…「上手くなってこそ、楽しいんだ!」と。部長の言うことには幻滅した。だから隆はそれまで培ってきた技を翌日、存分に見せつけた。

「おいおい…あいつ、上手いぞ!ハンパじゃなく、上手いぞ!」部長が同級生の部員に言った。

「うん…上手い!凄いや!」

「あいつ…何て名前だ?」

「えーっと…黒岩、黒岩隆!」

「黒岩、か…よし!決めた!」部長はドリブルしている隆を呼んだ。「おーい!黒岩くーん!」

「はーい!」隆は返事をして部長の方へやって来た。

「黒岩くん…君、上手い!」部長は隆の腕を小突いた。

「いや…まだまだ、大したことないです」

「どうだろう…君、俺の代わりに部長、やってみないか?」

「え!?」

 隆だけではない。周囲にいた部員も部長の大胆発言に驚いた。

「おい、部長!…何言ってんだよ!」

「一年生が部長?」

「昨日入ったばかりの新入りが…部長?」

 隆は口を開けてニコニコ笑う部長を見ていた。

 部長は集合をかけて、「みんな、聞いてくれ。今日から部長は、この黒岩隆くんだ。宜しく頼むぞ!」

「部長!…一体、何でまた…」

「新入部員を部長なんかに…」

「理由は簡単、黒岩くんが…俺よりも…ここにいる誰よりも上手いからだ!」

 ここで文句やヤジが飛んでもおかしくはない。が、それがないのがこの部のおかしなところ。隆は拍手喝采を浴びて、青子中学サッカー部の部長に就任した。

 前部長と新部長は夕方、一緒にハンバーガーショップへ行った。

「部長!今日は俺のおごりですから…たっくさん召し上がって下さいね!」

「そ…そんな…敬語なんか、遣わないで下さいよ…部長…」

「部長!俺はもう部長じゃありません!北見呼人です!」

 二人は席に着いて、こんな会話をした。

「黒岩くん…今日はびっくりさせて、済まなかったね。実は俺…部長なんか、やりたくなかったんだ。どうやって決めたと思う?」

「え?…判りません」

 北見はノートを取り出し、《阿弥陀籤》と書いて隆に示した。

「…何て読むんですか?」

 北見は《阿弥陀籤》に仮名を振った。

「あみだくじぃー?」

「そう。その前の年は、ジャンケンだったなー…」

 隆はチーズバーガーを持ったまま、口を閉じるのを忘れていた。

「だからさ…君みたいな上級者が来るようなところじゃないんだ。でも…俺は君のボール裁きを見て、《これだ!》って思った!…黒岩部長!君が弱小青子中サッカー部を変えるんだ!」

「北見さん…」

「俺にできることがあれば、協力する!あ、そうだ…部長、願わくば、伝統的に受け継がれている《仲の良さ》は…レベルアップしても守っていきたいんだけど…」

「ぼ、僕は…いきなり部長にされても、どこまでできるかは判りません。自信もありません…」

「君の好きなように、改革して構わない!大丈夫!上級生だって君の言うこときくから。あの拍手は嘘じゃない!《下手クソ!》って怒鳴ったっていいんだ!…年の上下を気にしてたら、上手くならない!上手い人が仕切らなきゃ、上手くならない!…そうですよね?部長!」

 隆自身、部のレベルの低さを悟るのに一分と時間を要しなかった。隆がこれからの三年間、部でサッカーを《楽しく》やるためには、チームメイトに何十倍もレベルアップしてもらわなくてはならない。隆が最上級生になってからでは当然遅すぎる。北見の思い切った早期決断は隆に大いなるチャンスを与えた。後はそれをどう生かすか。どこまで生かし切れるか…。

 翌日から早速、黒岩新部長の指揮執りが始まった。何はともあれまずは基礎。準備体操から始まってストレッチ・ランニング・ドリブル・パス・声出し…。予想以上のレベルの低さに隆は唖然とした。同時に、全部員が気持ち良い(気持ち悪い?)位に隆の言うことをきいてくれるのがとても嬉しかった。「一年生が…」「年下の癖して偉そうに…」という《いやな感じ》が全くない。

 こんなことがあった。

 ある三年生の先輩部員が、隆に「部長…俺、部を辞めたいんですが…」

「ど、どうしてですか?」

「俺…元々スポーツ苦手で…でもみんなでワイワイ騒ぐのが好きで…それでサッカー部に入ったんです。だから部長の方針には付いていけなくて…練習、キツいんです」

「一緒にやりましょうよ!そりゃ確かに今までよりは大変かもしれないけど…上手くなれば上手くなった分だけ、楽しいんですよ!本当です!もう少し…頑張りましょう!」

 部員は隆に従順であった。陰でのいやがらせは一切なかった。代わりに、練習がキツいからと退部を申し出る部員が各学年に数人ずついた。彼等に対し隆は親身になって耳を傾け、必死に説得した。

 隆の熱意が次第に部員に理解されるようになる。単なる《仲良し集団》から少しずつだが脱皮する兆しが見えてきた。そう…娯楽の追求から、勝利への意欲。

 隆や部員の努力が結果になって顕れた。連敗は二九でストップ…そう、勝ったのだ!

「部長ー!やったー!」北見は隆に抱きついた。

「北見さん…ありがとうございます!」

 隆は部員に再び拍手喝采を浴び、大袈裟に胴上げまでされた。隆は部長として大きく前進し、部員からより強く深い信頼を得た。

 隆とタツローが青子港緑地で初めて出会ったのは、黒岩部長初勝利の翌日の朝であった。

 隆は足腰の訓練も兼ねて、毎日早朝、砂浜でランニングとドリブルをしている。この日は隆よりも先にボールを蹴る少年がいた。

 隆は彼に話しかけた。「君もサッカー、好きなの?」

「俺からボールを奪えるかい?」

「え…?」隆は唐突な挑戦に驚く。「よーし、奪ったる!」

 少年は隆に負けない位、上手かった。「なかなかやるな!」

「まだまだや!」隆は右にフェイントをかけた。少年がバランスを少し崩した一瞬のスキを突いて、隆は左にボールを蹴り、勝負あり。

「くそー…」

「今度は僕の番や!」

「よーし…」

 二人は海を正面に見据えて砂浜の上にあぐらをかいた。

「僕は、黒岩隆。名前は?」

「千歳発朗。タツローって呼ばれてる。同い年だぞ。お前、青子中の一年生だろ?」

「うん…何で判った?」

「サッカー部の部長だろ?有名だから…」

「あ、じゃあ…タツローも青子中?」

「うん。野球部」

「野球?こんなにサッカー上手いのに…」

「野球はもっと上手いんだぜ!お前みたいに部長じゃあないけど…」

 二人は白い歯を見せて笑った。

「タツローは、何組?」

「三組」

「何や、隣やないか。僕は二組。…なあ、サッカー部…入らへんか?」

「弱いんだろ?」

「うん…まだ。そやけど、少しずつ上手くなってきとるんやで!」

「お前が…部長だしなー…」

「じゃあ、タツローが入部して、タツローが部長やればええやん!」

「冗談…」タツローは右手を振った。

「なあ…真面目に言ってるんやでー…」

「…じゃあ、こうしよう。次、どこと試合するんだ?」

「えーっと…来週の日曜に…鈴鹿西中と」

「よし…その試合で…黒岩がハットトリック決めたら、野球部辞めて入部してやる!」

「ホンマ?ホンマやな?約束するんやな!」

「ああ…約束するよ」

 隆はガッツポーズをとった。

「まだ入部するって決まった訳じゃないんだぞ」

「タツロー…僕は昨日の試合で、五点も取っているんやで!」

 実は、タツローはそれを知っていた。それだけではない。ここで毎日早朝練習をしていることも、鈴鹿西中と試合があることも、タツローは知っていた。

 翌週、鈴鹿西中との試合。後半三五分、四対一…勝利はほぼ決定的だが、隆はまだ二点しか取っていない。「あと一点…」そんな焦る気持ちが油断を生んだ。敵に足を引っかけられて転倒…。

「ぶ…部長!大丈夫ですか?」北見が横たわる隆にいち早く声をかけた。

 他のイレブンも心配して隆の方へやって来た。

 隆は右足首を手で押さえていた。「だ…大丈夫です…」ゆっくりと起き上がった。立つのがやっとという感じ…だが隆はフィールドに残った。「あと一点」ということはもう忘れていた。勝利への執念…隆は、痛みをこらえて大声で指示を出し続けた。

 一点返されたものの、四対二で勝利…青子中サッカー部始まって以来?の《連勝》!

 隆は部員に両脇を抱えられつつ部室へ戻ってきた。部室の入口に、タツローが立っていた。

 隆はタツローを見て、約束を思い出した。「タツロー…」

「二点しか、取れなかったな…」

「うん…駄目だった」

 タツローはうつむいて、「俺…昨日…、野球部…辞めたんだ!」

「え!?」

「即レギュラーになって、ピッチャーの四番…。それなりに楽しかったけど…俺、サッカーの方が…好きなんだ…」タツローは土下座した。「俺、サッカーがやりたいんです!黒岩部長!入部させて下さい!」

 隆はニッコリ笑った。「皆さん…どうしますか?…彼の入部を認めますか?」

 北見がいち早く拍手をし始めると、次から次へと拍手が連鎖していった。

「ありがとうございます!」

「タツロー!…顔を上げろよ!勝利祝いと入部祝い、一緒にやっちゃおう!」

 隆とタツローが握手をすると、部員から大きな歓声が挙がった。

【つづく】


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