翌朝、乱れやつれた形相で大成は目覚めた。頭が痛い。目がまともに開けられない。フラフラする。気持ちが悪い…。世間では俗に《二日酔い》と呼ばれる症状である。
大成はもうプータローではない。仕事には《責任》がついて回る。隆に朝食を用意しなければならない。目玉焼き・キャベツの千切り・ホットミルク・トースト等々…。普段ならばもう少し早く起きて用意し、隆がジョギングから帰ってくる頃、ちょうどできあがっている。今日は寝坊して…とても間に合いそうにない。
そうと判っていても、大成は自分のするべきことをきちんと全うしたかった。風呂場に駆け込み、首から上を冷水でビッショリ濡らし、気を引き締めた。「さ…寒い…タオル…」
バスタオルを頭に載せ、小刻みに震えながら大成はキッチンへ。いきなり寝起きからハプニングに出くわす…ピタリと足を止めて、口をパカンと開け、目前に立つ女性の後ろ姿をジーッと見つめた。
大成は声を出したかった。しかしこの状況に相応しい台詞が見当たらない。何故なら、彼女がどうしてここにいるのか、皆目見当がつかなかったから…そう、昨日のことを何も覚えていないのである。
更に驚いたのは、彼女が女優の富良野瑛美だということに気付いてから。サインじゃない、写真じゃない、テレビじゃない、映画じゃない…そこにはモノホンが存在する。生が動くのを目の当たりにしているのだ。
瑛美がこちらに振り向いた。「あ、お早うございます」
世界で一番素敵な笑顔を受け止めて、「お…お…お早うございます!」バスタオルをバサッと床に落として、頭を目一杯下げた。
「大丈夫ですか?…体の調子」
「んーもう…直っちゃいました!スッキリすがすがしい朝ですねぇー!ハハハハハ…」
「そうなんですか…隆ったら、これをドーンと出して…二日酔いでバテているだろうからって…じゃ、必要ありませんね」瑛美は薬箱を戸棚にしまった。
《隆》って呼んでいる…何で?…あれ?昨日…「あーっ!」
瑛美は突然の大声にびっくりして、手に持っていたフライパンを流しに落とした。「な…何…ですか…?」
「…隆…隆…の…」瑛美を差す大成の人指し指は震えていた。
「隆…が、どうしたんですか?」
大成の頭の中でふたつの映像が錯綜していた。隆と瑛美のディープ・キス…そしてもうひとつ、隆と…「あー!あー!あー…」頭を抱えて座り込んだ。「俺は…あー…」
瑛美は大成が全く理解できなかった。「あ、あのー…朝は、パンでいいですか?」
ゆっくりと瑛美の方を見上げて、「…何でも…いいです…。う、嬉しい…な…。ふ…ふ…富良野さん…お手製の…ブレックファスト…食べれるなんて…ふ…ふふ…ふふふふふ…昨日も…ごちそうさまでした…とても美味しかった…でへへ」唇を舐めながらの大成はもはや尋常ではなかった。
「昨日?昨日は何も…」
「いやいや、ちょっとした独り言ですよ…ひひひひひ…」
瑛美は大成のことを、少しだけ《恐い》と感じた。
隆が帰って来た。「あ、大ちゃん、おはよ!」
大成は隆をチラッと見た途端、顔を背けた。「…おはよ…」
「どう?酔いは残っとらへんのか?」
「…お、おかげさまで…」
「そう、良かったねー…。あ、瑛美、着替えて来るから」
「うん。もう食事、殆どできているから、早く来てね!」
「あ、あのー…俺、お邪魔じゃ…ない?」大成は顔を二人の方に向けずに言った。
「何言ってんのや。昨日のあの元気はどこに…」
「言わないでくれー!思い出したくないー…」
隆は大成にツカツカと近寄って、そっと耳打ちした。「上手だったよ!」
「バ…バッキャロー!」大成は隆の胸をドンと押した。
隆は下まぶたに深いシワを作って笑った。大成は照れ臭さを半減させて、漸く自然に笑った。そんな二人を見て、瑛美はやっと一安心した。
大成はパンにマーガリンを塗り、かじった。
瑛美はパンにマーガリンを塗り、隆に渡した。「はい」
「ん」隆は極当たり前のようにそれを受け取り、かじった。
「そ…それ、いいなー…」大成は隆の口許をジーッと眺めた。
「ん?」
「…塗りましょうか?大成さんのも…」
「えー?そんなー…悪いですよぉー…」ニタニタ大成。
「何がですか?」
「やっぱり、ねー…隆に悪いからー…」
「…気にせえへんよ、んなこと」隆はホットミルクを飲んだ。
「お前なー、こっちが一生懸命気ぃ遣ってんのに、何だよそれ…」
「瑛美のファンなんやろ!バター位、塗ってもらえばええやん!」
「ブブー、マーガリンです!」
「どっちでもええやろが!」
「ふーん…どっちでも、ねー…。大きくても、小さくても、どっちでも…」
「大ちゃん!まだそんなこと言うとるのか?」
大成はもうこだわってはいない。が、自分よりも大きなコアラをもらった瑛美のいる目の前で、敢えて深く突っ込もうと決めた。「元々買うつもりなんか、なかったんだろ?メインは瑛美ちゃんで、俺のは《ついで》だったんだろ?」
「そ、そんなこと、あらへん!大ちゃんに別のもの買おうと思ったんやけど、ええもんが見つからなくて…」
「で、小さいの…ね」
「大きいのを買ったら買ったで《こんなにデカいもん、もらってどうするんじゃー!》って文句言うんやないの?」
うん、その通り、そうだろうな…と大成は思った。実は、小さいコアラを既に気に入っていた。むしろ、大小差を付けたことは正しいと思っている。それは愛の大小の顕れだと、隆にはっきりと言って欲しかった。そしてそれを聞いてはにかむであろう瑛美ちゃんが見たかった。「本当の理由が、聞きたいなー…。大きさの違うコアラをお前からもらった二人がいる前で、はっきりと、ビシーっと、言っちゃってもらえませんかねー…」
隆の表情が鋭くなる。大成と瑛美は、隆に全く同じ期待をする。
隆は立ち上がって自分の部屋へ行ってしまった。
「…怒らせたかなー…」大成は、少し言い過ぎたかな?と感じた。
「昨日、私、隆に聞いたんです…《私と大成さん、どっちが好き?》って。でも…比べられない、って…。大きい小さいとは、関係ないって…」
「そういえばあの時そんなようなこと言ってたよなーあいつ。…でも…まあ、それなりにうまくやってるんでしょ?アレを見る限りでは…」
瑛美は顔を赤くして下を向いた。「でも…隆と一緒にいて、たまに何となく感じることがあるんです。《越えられない壁》のようなもの…。それはもしかして…大成さん…?」
「ちょ、ちょっと…待って下さいよ!俺達はそんな関係じゃありませんよ…確かに、酔った勢いとはいえ、昨日はあんなこと…しちゃいましたが…。でも俺は隆と、ではなく…あなたと…」キスをしたと思っています、とまでは言えなかった。
「《あんなこと》って…何をしたんですか?」
「あ、ご存じでない?あ、知らないんですね…じゃ、知らなくていいです」
「えー…教えて下さいよー…」
可愛い…大成は益々ファンになってしまった。恋に落ちて、隆と三角関係で対立…というバカなことまで想像してしまった。
隆が戻ってきた。手にしていたものを大成に渡した。「はい。これでええやろ?暗証番号は、1711…《イ》ンパクト《セブン》の《イレブン》って覚えて」
隆が大成に手渡したものは、預金通帳と印鑑とキャッシュカード。「ど…どういうことだよ…おい…何だよこれ…」
「瑛美と大ちゃんで差を付けたんだったら、その分埋め合わせせえへんと、信じてくれへんのやろ?僕は、大ちゃんと瑛美を比べたりなんかしてへんのに…。これは僕の全財産や。これからは大ちゃんに、管理してもらう…」
「俺は…俺はこんなこと、望んじゃあいない!こんなもん、要らないよ!」大成は隆に突き返した。
「大丈夫や!大ちゃんなら…」
「責任持てない!」
「お願いや!」
「バッッッカじゃねーか?隆、自分のしようとしていることが、どういうことなのか判ってんのか?…もし、もし俺がこれを、持ち逃げしたら…」
「大ちゃんは、そんなこと…死んでもせえへん。ぜっっったいに!絶対にせえへん!」
隆のこの一言が、大成の涙腺を刺激した。「ま…まだ…会ってから一箇月も経ってないのに…俺のこと全部判ったような口をきくな!」左手で目頭を押さえた。
「お金を下ろしに行くのは面倒やし、かといって大金を家に置いておくのは物騒やし…」
「毎日、楽しみだったんだ…お前から、一日の生活費をもらうの。それだけで、《あ、俺、信頼されてるんだな!》って…嬉しかった。だから絶対に不正はしたくなかった。買い物したらきちんとレシートとか領収書もらって…家計簿みたいにノートに書いて…。俺のことを信じてくれる…お前を、裏切るような真似は…絶対にしたくなかった!」
「ほら…だから大丈夫や!金額が大きくなるだけや!大ちゃんなら安心して、任せられる!」
「隆…」隆のニコニコした顔を見ていたら、今度は本格的に涙が溢れてきた。
「金庫、買ってもいいか?」
「ええよ。重くてゴッツいやつね!」
大成と隆は見つめ合い、笑った。
「つまんないつまんないつまんないつまんなーい!」
「瑛美…」
「可愛い…」怒った瑛美ちゃんもス・テ・キ!と大成は思った。
朝食後暫くして、瑛美は隆の車で名古屋へ向かった。
「隆…今度は私に埋め合わせしてよ」
「え?…何や、今度は瑛美か…」
「通帳を預けちゃうなんて…負けたわ」
「またそーゆーことを言う!勝ち負けやないやろ!」
「でも…羨ましい。大成さんに、正直嫉妬したわ…」
「僕の携帯電話の番号知ってるの、世界中でたった一人だけなんやで!」
「でも…それだけじゃ、ねー…まだ足りないわ…」
「カタチにしないと僕のこと、信じられへんのか?大ちゃんのことを信じとる僕は好きになれへんのか?」
「…私、目標ができたのよ!」
「…え?」
「さっき、隆ん家を出る前に、大成さんに宣戦布告したのよ!」
「何や、それ…」
「教えてあげなーい!私と、大成さんの、ヒ・ミ・ツ!…負けないわ!あ、だから…私と大成さん、差を付けないでよね!同じ条件で戦いたいの!…《戦友》、かな…フフフ。あ、そうだ!」瑛美はシステム手帳を取り出し、ボールペンを走らせた。「これ、大成さんに渡して!」紙を引っ張り、四つ折りにして隆に手渡した。
「何が書いてあるんや?」
「隆の携帯の番号と、愛の!誓いの!戦いの!メッセージよー!…ね、嫉妬した?」
隆は瑛美の女心をよく理解し得なかった。
大成は瑛美の《宣戦布告》を心から喜んでいた。「そうか…瑛美ちゃん、隆と…。そりゃいい!最高だ!うんうんうんうん!」
……「大成さん、その通帳とハンコとカード、いつか私のモノにしてみせるわ!それまで…大切に、預かっていてよね!隆と…私のために!…私も、大成さん…あなたを信じてみるわ…隆が心底信頼しているあなたを!」……
「友人代表の挨拶、何喋ればいいんだろうなー。服装は…隆に任せよう。それにしても隆の奴、幸せモンだよなー…。俺も、瑛美ちゃんみたいなかわゆーい女性と、愛を育みたいなー…」二人の将来と己の希望に夢をふくらませる大成…。
隆が我が家に戻って来たのは、正午十分前であった。
「隆!隆!ごめん…言うの忘れてた!」
「な、何?」
「昨日…昨日電話があって…正午にリョクチ・ミナトだって!」
「りょくちみなと…?あ、青子港緑地のことやな…って、電話誰から?」
「え?えーっと…チトセ…千歳さん!」
「千歳…?千歳発朗…タツロー…?」
「は、早く!早くリョクチに行けよ!千歳さん…隆が正午きっかりに来なかったら帰っちゃうって言ってたぞ!」
「わ、判った…あ、そうや!これ…瑛美から」大成に瑛美からのメモ書きを手渡した。「じゃ、行ってきます!」隆は駆け足で再び邸宅を後にした。
紙を開いて大成の表情がデレデレにだらしなくなったのは、言うまでもない…。「瑛ー美ーちゅわーん…ぐふふふふ!」
青子港緑地…海に面した公園・広場である。この日はちょうど晴れていて、青い空の下、海はキラキラと輝いていた。青子港緑地は伊勢湾を正面に、左が港、右が砂浜。その砂浜で、犬が飼い主らしき女性とサッカーボールでじゃれ合っていた。もう一人、男性がそばで犬を楽しげに見ている…それが《タツロー》だった。
隆は緑地の椅子に座り、その光景を暫く眺めていた。
タツローは隆に気付き、犬とさよならして、ボールを蹴りながら隆の方向へ歩み寄って来た。「久し振りだな…黒岩」
「タツロー…いきなり何の用なんや?」
タツローが笑顔なのに対し、隆はブスッと無愛想な表情であった。
「来ないと思った。まだ…怒っているのかなーって」
「当たり前や!何年、何十年経とうが…お前は許さへん!」
「まあまあ…黒岩。色々あったけど結局お互いにプロになったんだし…結果オーライでよし、としようじゃないか」タツローは隆の肩をポンと叩いた。
「調子ええこと言うな!」
タツローは急に険しい顔つきになって「いいや!言ってやる!…黒岩、何だ?お前の去年の無様な成績は…」
隆は一瞬言葉に詰まった。「お前に言われたくない!」
「実力はイマイチの癖して、人気と知名度は底々あるもんだから…チヤホヤされて、スターに仕立て上げられて…いい気になってるんじゃないのか?」
隆は両拳をきつく強く握り締め、「そんなことを…言いに来たのか?」
「俺は野球を選択して正しかったと思っている。黒岩…お前もそう思うだろ?」
前人未到の記録をうち立てた男の言うことは、それなりの重みがあった。隆の奥歯がキリキリと音をたてた。「タツロー…お前は…僕との約束を…」
「約束を守らなかった過去の自分に感謝しているよ」タツローはリフティングを始めた。
「そのボールは…厭味か?」
「いやいや…九年前のあの日を再現しようと思って」
「再現?」
「一応、いい想い出だからなー…。無駄ではなかったとは思っている。付き合ってくれるか?それとも…俺とじゃ嫌か?」
隆はタツローを睨んだ。「もう…お前のボールは蹴られへん!」
「そうか…じゃ、ま…口だけじゃなく、サッカーの方もせいぜい頑張ってくれや」タツローは隆に背を向けて手を振りながらその場を去った。
隆は足下に落ちていた石ころを砂浜の方に向かって蹴飛ばした。九年前…この緑地でタツローと出会ったあの日が甦る…。
……一九八六年四月、隆は地元の青子中学校に入学し、サッカー部に入った。青子中学サッカー部は当時二九連敗中…はっきり言って弱かった。しかし部の雰囲気は決して悪くはなかった。弱い代わりに縦横の関係がうまくいっており、仲の良さでは体育会系クラブ随一を誇っていた。
新入部員に対して、部長はこんな挨拶をした。「我が青子中学サッカー部は、ひじょーに、レベルが…低い!従って将来、日本を代表するサッカー選手になろう!なーんて思っている人はおそらくいないとは思うが…もしいたら、転校した方がいい!前例からして、《お!うまい!》という奴でも、居心地良い我がサッカー部の環境に順応して、《楽しくサッカーがやれればいいや!》と言い出して…技術の向上を怠ってしまう!…」
隆は「違う!」と言いたかった…「上手くなってこそ、楽しいんだ!」と。部長の言うことには幻滅した。だから隆はそれまで培ってきた技を翌日、存分に見せつけた。
「おいおい…あいつ、上手いぞ!ハンパじゃなく、上手いぞ!」部長が同級生の部員に言った。
「うん…上手い!凄いや!」
「あいつ…何て名前だ?」
「えーっと…黒岩、黒岩隆!」
「黒岩、か…よし!決めた!」部長はドリブルしている隆を呼んだ。「おーい!黒岩くーん!」
「はーい!」隆は返事をして部長の方へやって来た。
「黒岩くん…君、上手い!」部長は隆の腕を小突いた。
「いや…まだまだ、大したことないです」
「どうだろう…君、俺の代わりに部長、やってみないか?」
「え!?」
隆だけではない。周囲にいた部員も部長の大胆発言に驚いた。
「おい、部長!…何言ってんだよ!」
「一年生が部長?」
「昨日入ったばかりの新入りが…部長?」
隆は口を開けてニコニコ笑う部長を見ていた。
部長は集合をかけて、「みんな、聞いてくれ。今日から部長は、この黒岩隆くんだ。宜しく頼むぞ!」
「部長!…一体、何でまた…」
「新入部員を部長なんかに…」
「理由は簡単、黒岩くんが…俺よりも…ここにいる誰よりも上手いからだ!」
ここで文句やヤジが飛んでもおかしくはない。が、それがないのがこの部のおかしなところ。隆は拍手喝采を浴びて、青子中学サッカー部の部長に就任した。
前部長と新部長は夕方、一緒にハンバーガーショップへ行った。
「部長!今日は俺のおごりですから…たっくさん召し上がって下さいね!」
「そ…そんな…敬語なんか、遣わないで下さいよ…部長…」
「部長!俺はもう部長じゃありません!北見呼人です!」
二人は席に着いて、こんな会話をした。
「黒岩くん…今日はびっくりさせて、済まなかったね。実は俺…部長なんか、やりたくなかったんだ。どうやって決めたと思う?」
「え?…判りません」
北見はノートを取り出し、《阿弥陀籤》と書いて隆に示した。
「…何て読むんですか?」
北見は《阿弥陀籤》に仮名を振った。
「あみだくじぃー?」
「そう。その前の年は、ジャンケンだったなー…」
隆はチーズバーガーを持ったまま、口を閉じるのを忘れていた。
「だからさ…君みたいな上級者が来るようなところじゃないんだ。でも…俺は君のボール裁きを見て、《これだ!》って思った!…黒岩部長!君が弱小青子中サッカー部を変えるんだ!」
「北見さん…」
「俺にできることがあれば、協力する!あ、そうだ…部長、願わくば、伝統的に受け継がれている《仲の良さ》は…レベルアップしても守っていきたいんだけど…」
「ぼ、僕は…いきなり部長にされても、どこまでできるかは判りません。自信もありません…」
「君の好きなように、改革して構わない!大丈夫!上級生だって君の言うこときくから。あの拍手は嘘じゃない!《下手クソ!》って怒鳴ったっていいんだ!…年の上下を気にしてたら、上手くならない!上手い人が仕切らなきゃ、上手くならない!…そうですよね?部長!」
隆自身、部のレベルの低さを悟るのに一分と時間を要しなかった。隆がこれからの三年間、部でサッカーを《楽しく》やるためには、チームメイトに何十倍もレベルアップしてもらわなくてはならない。隆が最上級生になってからでは当然遅すぎる。北見の思い切った早期決断は隆に大いなるチャンスを与えた。後はそれをどう生かすか。どこまで生かし切れるか…。
翌日から早速、黒岩新部長の指揮執りが始まった。何はともあれまずは基礎。準備体操から始まってストレッチ・ランニング・ドリブル・パス・声出し…。予想以上のレベルの低さに隆は唖然とした。同時に、全部員が気持ち良い(気持ち悪い?)位に隆の言うことをきいてくれるのがとても嬉しかった。「一年生が…」「年下の癖して偉そうに…」という《いやな感じ》が全くない。
こんなことがあった。
ある三年生の先輩部員が、隆に「部長…俺、部を辞めたいんですが…」
「ど、どうしてですか?」
「俺…元々スポーツ苦手で…でもみんなでワイワイ騒ぐのが好きで…それでサッカー部に入ったんです。だから部長の方針には付いていけなくて…練習、キツいんです」
「一緒にやりましょうよ!そりゃ確かに今までよりは大変かもしれないけど…上手くなれば上手くなった分だけ、楽しいんですよ!本当です!もう少し…頑張りましょう!」
部員は隆に従順であった。陰でのいやがらせは一切なかった。代わりに、練習がキツいからと退部を申し出る部員が各学年に数人ずついた。彼等に対し隆は親身になって耳を傾け、必死に説得した。
隆の熱意が次第に部員に理解されるようになる。単なる《仲良し集団》から少しずつだが脱皮する兆しが見えてきた。そう…娯楽の追求から、勝利への意欲。
隆や部員の努力が結果になって顕れた。連敗は二九でストップ…そう、勝ったのだ!
「部長ー!やったー!」北見は隆に抱きついた。
「北見さん…ありがとうございます!」
隆は部員に再び拍手喝采を浴び、大袈裟に胴上げまでされた。隆は部長として大きく前進し、部員からより強く深い信頼を得た。
隆とタツローが青子港緑地で初めて出会ったのは、黒岩部長初勝利の翌日の朝であった。
隆は足腰の訓練も兼ねて、毎日早朝、砂浜でランニングとドリブルをしている。この日は隆よりも先にボールを蹴る少年がいた。
隆は彼に話しかけた。「君もサッカー、好きなの?」
「俺からボールを奪えるかい?」
「え…?」隆は唐突な挑戦に驚く。「よーし、奪ったる!」
少年は隆に負けない位、上手かった。「なかなかやるな!」
「まだまだや!」隆は右にフェイントをかけた。少年がバランスを少し崩した一瞬のスキを突いて、隆は左にボールを蹴り、勝負あり。
「くそー…」
「今度は僕の番や!」
「よーし…」
二人は海を正面に見据えて砂浜の上にあぐらをかいた。
「僕は、黒岩隆。名前は?」
「千歳発朗。タツローって呼ばれてる。同い年だぞ。お前、青子中の一年生だろ?」
「うん…何で判った?」
「サッカー部の部長だろ?有名だから…」
「あ、じゃあ…タツローも青子中?」
「うん。野球部」
「野球?こんなにサッカー上手いのに…」
「野球はもっと上手いんだぜ!お前みたいに部長じゃあないけど…」
二人は白い歯を見せて笑った。
「タツローは、何組?」
「三組」
「何や、隣やないか。僕は二組。…なあ、サッカー部…入らへんか?」
「弱いんだろ?」
「うん…まだ。そやけど、少しずつ上手くなってきとるんやで!」
「お前が…部長だしなー…」
「じゃあ、タツローが入部して、タツローが部長やればええやん!」
「冗談…」タツローは右手を振った。
「なあ…真面目に言ってるんやでー…」
「…じゃあ、こうしよう。次、どこと試合するんだ?」
「えーっと…来週の日曜に…鈴鹿西中と」
「よし…その試合で…黒岩がハットトリック決めたら、野球部辞めて入部してやる!」
「ホンマ?ホンマやな?約束するんやな!」
「ああ…約束するよ」
隆はガッツポーズをとった。
「まだ入部するって決まった訳じゃないんだぞ」
「タツロー…僕は昨日の試合で、五点も取っているんやで!」
実は、タツローはそれを知っていた。それだけではない。ここで毎日早朝練習をしていることも、鈴鹿西中と試合があることも、タツローは知っていた。
翌週、鈴鹿西中との試合。後半三五分、四対一…勝利はほぼ決定的だが、隆はまだ二点しか取っていない。「あと一点…」そんな焦る気持ちが油断を生んだ。敵に足を引っかけられて転倒…。
「ぶ…部長!大丈夫ですか?」北見が横たわる隆にいち早く声をかけた。
他のイレブンも心配して隆の方へやって来た。
隆は右足首を手で押さえていた。「だ…大丈夫です…」ゆっくりと起き上がった。立つのがやっとという感じ…だが隆はフィールドに残った。「あと一点」ということはもう忘れていた。勝利への執念…隆は、痛みをこらえて大声で指示を出し続けた。
一点返されたものの、四対二で勝利…青子中サッカー部始まって以来?の《連勝》!
隆は部員に両脇を抱えられつつ部室へ戻ってきた。部室の入口に、タツローが立っていた。
隆はタツローを見て、約束を思い出した。「タツロー…」
「二点しか、取れなかったな…」
「うん…駄目だった」
タツローはうつむいて、「俺…昨日…、野球部…辞めたんだ!」
「え!?」
「即レギュラーになって、ピッチャーの四番…。それなりに楽しかったけど…俺、サッカーの方が…好きなんだ…」タツローは土下座した。「俺、サッカーがやりたいんです!黒岩部長!入部させて下さい!」
隆はニッコリ笑った。「皆さん…どうしますか?…彼の入部を認めますか?」
北見がいち早く拍手をし始めると、次から次へと拍手が連鎖していった。
「ありがとうございます!」
「タツロー!…顔を上げろよ!勝利祝いと入部祝い、一緒にやっちゃおう!」
隆とタツローが握手をすると、部員から大きな歓声が挙がった。
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