「この世に生を受けてから何ひとついいことはなかった…そしてこれからも、何ひとつ変わらない宿命のもと、生きていかなければならない。貧困・両親の離婚・学校でのいじめ・長期の入院・自殺未遂…。一通りの不幸を体験してきた。もうこれ以上の不幸にめぐり合うことはないのかもしれないが、どう好意的に考えようとも、心から笑えるような素晴らしい何かを目の当たりにする日は来まい………」
カボチャカラーの東海道線の車両に揺られながら、彼は悲観的絶望的観測を唱えていた。夜行の鈍行ということもあり、寝る人もあれば、相変わらず喋り続ける人、酒を呑む人…。歌にもあるように、人生はいろいろとは言うが、不幸の背比べなんかやってみたら俺に勝てる奴はいない…なんていう不可能間違いなしの実験構想を愚痴に変えた。
捨てたのだ。彼はそれまでの彼をきれいスッパリ捨てた。いや、正確には捨てたつもりでいた。捨てたい、が捨て切れなかった、とでも表現されるべきか。彼の性格だとか個性と呼ばれるべきものは、このカボチャに乗る前と後で何ら変わらず継続している。百歩譲って容姿・外見はいじくることが可能であるとしても、中身=彼の本質的な、最も彼たる軸・中心の部分は、ちょっとした決意ぐらいで別のモノと取り替えることはできない。塗装をカボチャからスイカに変えても、東海道線の線路上で走らなくなるだけで、電気を動力とする車体のままなのだ。そして今の彼は、そのスイカにすら足元に及ばない。
家を出た。高校を卒業し、就職もしたが、母に内緒で退職し、家を出た。おそらく心配はしないだろう、むしろ厄介払いができてセイセイしている…と、彼は自分の母を悪意的にとらえようとした。それを《理想》ではなく《現実》と固定することによって、自分の中に生まれつつある罪悪感を中絶しようと努めた。
どこに行って、何をするか、真っ白の状態である。どこの駅で降りるのかすら決まっていない。ただひとつ、終点までは乗らないゾということだけは、どういう訳か現在唯一決定されたスケジュールとなっている。
するつもりのなかった居眠りをして、気が付くと名古屋だった。彼は降りた。降りて、取り敢えず目の前にあったベンチに座って、カボチャに別れを告げた。如月の風が冷たく彼の耳元を通り過ぎて、暖房の箱の中でヌクヌクとしていた自分に気付く。暖かいところにいると、暖かいのはそこだけで、その周りは寒いんだということをついつい忘れてしまう…人間という生き物の常を悟る。今の彼の心境を察するに、他人と比較したり、自分を何か別のモノに投射して自己のアイデンティティー・存在意義を見い出したいようなのだ。人との付き合いには積極的な方ではなかった。今は生の自分を別の人間にぶつけて、その反応を見たかった。一体、俺は、何者なのだろうか…今更ながら知りたくなったようである。
誰でもよかった。誰かと話がしたい。彼が彼として立派に自立できるような人に出会うためには、《かたっぱしから状態的意気込み》だった。情けない偶然は彼に訪れるのか。ずーっと後になってから「ああ、君だったのか」といった感じで答えが出ればよいのだが。
彼の名は、芽室大成。二十四歳。自分を見付けるために、自分なりに自分を空っぽにした上で、昨日、無防備な旅を始めたばかりである。
名古屋の街を何となくうろついた。目的はなかった。まず、ファーストフードを頬張る。通勤途中のサラリーマンがモーニングセットのコーヒーをすする。目線は新聞や雑誌といったメディアにそそがれて、そこには空気で仕切られた相互非干渉合意に基づく冷ややかなる人間関係の支配がある。大成はその打開策を見出せないまま食べ終わった。
再び名古屋駅へ。あちらこちら、ラッシュの人込みに身を任せる。興味だとか魅力だとか、この空間では見えてこない。おそらく一人ひとりには個性がある。しかし人間が創造した反自然的な《現代社会》においては、いかに没個性的人間になりきれるか否かでその人間の価値を決する傾向が強い。はみ出た者は、大成功して大金持ちになるか、ただの馬鹿という烙印を押されてしまう(言うまでもなく前者は例外的存在、殆どは後者扱いとなる)。平均・安定・中流…無難な人生が最も楽であり、求められ、推奨される。「ちょっと違う」と感じていても、彼にとって実は最高の平均・最高の安定・最高の中流なのだ。向き不向きに関わらず、彼に選択肢は与えられていない。彼に課せられた、限られた方向性の中で、そこから外れることのない程度の選択余地があるにはあるが、それは本来あるべき純自然的な選択肢とは呼べない。
それでも大成は探すことをやめようとはしなかった。が、思い通りにはいかない…ネガティブな自分の性格、これに反駁。結果は…。いや、場所が悪い。まだ結果は出ていない…自分以外の何かを悪者にすることによって自己の正当化を図ろうとしている…自分に言い訳をして、一生懸命なだめているような気がしてきた。
「無理、なのだろうか…」ひとりというのはこの上なく弱い。元々自信はなかった。自信をつけるためにここへ来た…しかし。
地下へと続く階段を下ると、近鉄の切符売場があった。最低料金の切符を一枚買って、改札をくぐった。座れる電車が来るまで待つことにした。そして発車する時点で適度な空間が欲しかった。ゴミ回収車に押し込まれたゴミのひとつになりたくはなかった。
各駅停車が大成にはぴったりだった。急いでいないし、目的地はないし。下車するにしても、降りる機会が必然と増えるから、選択肢が多い。停車する際減速して、乗客それぞれ均一に進行方向へ圧迫され、完全に車両が停まると再び正位置に押し戻されるあの感じが好きだった。人間の入れ替えの頻度が高いし、各駅停車しか停まらないような《田舎》原住民の素顔を垣間見れるのも大成には都合が良かった。
途中、眠気眼の男三人組が大成のいる正面の座席に座った。疲れているようだ。いや、徹夜で酒を飲み明かしたのか。いわゆる《朝帰り》であろう。彼等は黙ったまま、ただ座っている。そしてふたつ先の駅で、三人のうちの二人は、残りの一人に片手を軽く挙げて合図してから下車、進行方向へ向かってホームを歩いて行った。
大成はその二人を窓越しに目で追った。首の隙間をコートの襟できつく締め、両肩を緊張させつつも、おそらく切符を探しているような仕種がそこにあった。電車が動き始め、そのまま目線を二人に向け続けていると、いつしか正面に座った残りの一人が彼等を追い越した。大成は自然と、正面一点を見続けることになる。
そこで予想だにしなかった出来事が起こる。その残りひとりは一転、元気になる。今までは芝居だったのか。仲間に調子を合わせていたのか。両腕を目一杯拡げて挙げて、僅かではあるが笑顔を覗かせた。
大成は彼に興味を持った。単純に「今の態度の変化について」彼に問うてみたくなった。大成は右手を胸に当ててから軽く深呼吸をして、もしかしたら大きな一歩となるやもしれぬ《一言》を発する態勢を整えた。
それとほぼ同時であった。大成の正面に座っていた男は、大成の方に歩み寄ってきた。目を倍の大きさにして大成は喉元まで来ていた《一言》を腹の底に押し戻した。
そして大成はショッキングな台詞を叩きつけられてしまう。
「もしかして…家出?」
「は?」大成は自分の見る目のなさを恥じた。
「あ、いや…そんな気がして…」
「そ、そんなこと…君には関係ないだろ!」
「え!じゃあ本当に家出なんだ…」
大成はこの無礼者に対してどういう訳か正直であり続ける。否定する気が起きない。レストランで見知らぬ人に対して「美味しいですか?」と愚問する実験を思いついた大成の精神状態は不安定かつ不明である。
「ね、ね、どっから来たの?」
「…カワサキ…」
「ふーん、川崎ね…。新幹線にでも乗ってきたの?あ、違うな…家出や!金あらへんもんね」
頭にくる程ズバリを突く彼の台詞達は大成をより一層無気力にさせた。更に彼は意表をも突いた。
「ね、うち、来ない?今日、泊まってもええよ!」
ほんの一分足らずでいくつもの衝撃を受け続けた大成は、もしかしたら俺は今実は睡眠の途中で、眠りが浅くなって夢を見ているのだ、と思い始めた。そして大成は寝ている(かもしれない)自分に一生懸命呼びかけた。「なにしてるんだ!早く起きろ!とにかく現実に戻るんだぁー!」
「あ、終点や。降りましょか?こっから近いから…」
かなしいかな、大成は彼のあとを付いていくことしかできなかった。
彼の家に行く途中、彼はサインや握手を求められた。大成は彼を知らない。一体何者なのだろうか、また興味が沸いてくる。しかしその興味を、大成は興味と認めたくはなかった。それは彼を理解してしまうかもしれない、意気投合してしまうかもしれない、もしかしたら彼がこれからの自分の人生に多大なる影響を及ぼすことになるかもしれない…というある種の《恐怖》が、時期尚早ではあるが彼を悩ませ始めていたからである。早合点であることを祈る一方、期待をもしている二重人格的精神状態の自分自身を理解したくはなかった。自己否定願望とでも言うべきか。大成の《恐怖》は裏を返せば、《魅力ある人物との出会い》、ということになってしまうのだから。
お互いに、敢えて、正体を明かそうとはしなかった。明かさない理由は大成と彼とで大きく異なる。一言で言えば、大成は意識して、彼は無意識のうちに、となる。
大成はこれからどうなるのかを自分なりに先読みしていた。
……何故彼はあの電車の中であんな風に話しかけ、家に招き入れようとしているのか。何かを企てているに違いない。目的があるんだ。俺を何かに利用しようとしているに決まっている。それを明らかにするためには彼が何者であるかを知る必要がある。こっちから名前を言えば自ずと判るのだろうが、先に話しかけたのは俺じゃない。不自然だ。会話の主導権はあっちが握っているし、あっちから名乗るのが筋だ。それまで俺は手の内を明かさない。ただでさえ「家出」「カワサキ」「金無し」の駒は既に奪われていて、形勢不利。本意ではないが、今はじっと敵の動きを静観するしかない…。
一方の《敵》はというと…殆ど考えはなかった(全く、ではなく、殆ど)。これから先のこと、殆ど、白紙である。自己紹介は、単に忘れている(最近は自己紹介しなくても、彼が誰でどういう人なのか、判る人が多くなったため)だけ。大成のような深読みはしていない。だからこんな台詞が出てくる。
「あ、うち着いたら、うん…ビール?ウイスキー?ポン酒?」
またしても彼は大成の推理の揚げ足をとる。
「…なあ、朝まで飲んでいたんだろ?」
「あ、なんや!見とったんか!…あの二人と一緒におったのも…知っとったんかー!」
「…あ、別に見ようと思って見た訳じゃなく、偶然目に入っただけだぞ。目の前だったし…」
「別にそんなことどうでもええやん」
ヤバい!と大成は思った。できることなら今の一言は取り返しをつかせたかった。自分がどれだけ彼に対して疑心暗鬼になっているかを知らしめてしまった…。実際どうなのかといえば、やはりお互いの考えていることは平行線を辿っており、今のところ交わる気配はない。大成があらゆることに神経質になっているのをよそに、「別にそんなことどうでもええやん」とサラリ言ってのけた彼は、やはり自然体であった。彼のこの一言の中に、特に深い意味は込められていなかった。
「あ、あそこや。あのコンビニはええよ。ツケが利くんや。昔っから通っとったから、馴染みあるし。たまにおまけしてくれるしな」
「ふーん、そう…」まだ立ち直れない大成。
「つまみは何買う?あ、腹減っとる?」
「い、いや…名古屋で食ったから…」
「そっか。ま、今日は僕のおごりだから、何も心配せんでええよ」
当たり前だ!と大成は言いたかった。
ツケで買ったモノが詰まったコンビニ袋を手にさげた彼の家は、《邸宅》と呼ぶに相応しい素晴らしい立派さを誇っていた。彼とその邸宅のギャップは、大成にとってまた新たなる難解奇問となってしまった。
門をくぐり、玄関まで歩いている途中、
「あー、やること一杯たまってるんや。思い出してしもた。これやから家に帰るのは嫌なんや」ともらした彼の何気ない台詞に実は深ーい意味が込められていたことに、大成は全く気付かず、聞き流してしまった。
「ちょっと、散らかっとるけど、どうぞ」
ドアを開けて一歩家の中へ立ち入ると、モノというモノが山積・散乱していて、次の一歩をどう踏み込んでいいのかすら判らない。
「こ、これは…」唖然。できることなら来た道を引き返したくなる大成。
「大丈夫。一部屋だけ、きちんと空いとるから」
「でも…もう少し片付けても…いいんじゃない?」
「そやなー…そやけど、忙しくてさ、ついつい後回しにしてしまうんや。やってくれる人がおれば、ええんやけど…」
「…君と結婚した人は、可哀相だよなー」
「いやいや、そんなことあらへん。お手伝いさん頼むから」
「あーそー…こんなとこ手伝いにくる人、いるんならその顔見てみたいもんだねー」大成は厭味たっぷりに言ったつもりであった。
「ふ、ふふふ…」彼は不気味な笑顔を浮かべた。「見たい?じゃ、今、見せたる!」山をかき分けて彼はその中へと消えて行った。そして数十秒後、彼は探し取ってきたものを大成の前へ突き出した。
「じゃーん!」
「…へ?」大成は彼の行動を理解し得なかった。「…か、鏡?」
「そう!鏡!」
「…へ?」
「写っとる人が、お手伝いさんや」ニコニコして彼は言った。
「…俺?」
「そう、《オレ》」大成を指差した。
十秒程、空気が止まった。そこでは何ひとつ、動きはしなかったように思えた。大成は中断していた思考能力を再び起動させ、後ずさりして方向転換、家を出た。
「あーっ、待った待った!」彼は慌てて大声を挙げた。
「…冗談、だろ?」
「…本気!」
「…さよなら」
「ちょーっと待ってくれ!チャンスをくれ!話、聞いて欲しいんや」
「バカにするなよ!どーせ俺は家出して、金だってそんなにねーよ。何々だってんだよ。優越感に浸っているのか?見下しやがって。そんなに俺が情けなく見えたか?可哀相だったのか?ふん、どうとでもとれよ。君の顔なんか二度と見たくないね」
「僕を…助けて欲しい!」彼は今日初めて真剣な顔になった。「助けて欲しいんや…。僕、バカになんかしてへん。確かに、家出したっていうの聞いて、やってくれるかなーとは考えた。そやけど、僕、見下したりしてへん。むしろ、僕の方が見下されるべきなんや。あんたの言うように、ここに手伝い来て、長続きする人なんかいてへんかった。自分でも、だらしないんは判っておるつもりや。せやかて、性格やから、頭で判っとっても、何も変わらんのや」
「甘ったれるな!」大成は顔を赤くして怒鳴った。「性格?言い訳するな!やらないだけじゃないか!やってみりゃいいだろ!仕事早めに切り上げて、すぐ風呂入って出て、とっとと飯食って、寝る時間削ってでも、やれよ!努力してみろよ!あ?どーなんだよ!」
数秒間、うつむいていた彼が大成の演説の感想を述べる。「…感動…した!」
「は?」大成はまたしてもズッこけた。
「あんた、凄いよ。さっきおうた(会った)ばっかなのに。ようそこまでマジになれるな」
大成は、再び後悔の念にかられた。そうだ、彼の言う通りだ。無関心・無関係を装うことだってできたはずじゃないか。このゴミ山を見て即後戻りすることだって、やろうと思えばできたはずじゃないか。関わらなければよかったんだ…振り返れば《もしもあの時》ばかり思いつく。
「これからあんたと食って飲んで寝ようと思っとったけど、やるよ。明日は練習やし、今日、今しかあらへん」
「れん…しゅう?」
「な、もしかして、僕のこと、ホンマに知らんの?」
大成は憮然とした。
「あー、そんな目、せんといてや。見下してない、尊敬してます」
「バカ!」大成は思わず笑ってしまった。
「僕は、《名古屋インパクトセブン》の、黒岩隆」
「…なごや…いん…ぱくと…せぶん…?」
「…え…、それも知らん…?」
「…知らん。悪いか?」一瞬、会話の主導権を奪ったような気がした。
「い、いやいや…悪ぅない悪ぅない…ハハハハ…」彼は首を振った。「川崎じゃマイナーなのかなー。でも川崎だって《ベルリー》あるしなー」
「ベルリー?あ、知ってる知ってる!あ、サッカーか。…え?サッカー!」
「僕、Jリーガー!」彼、つまり隆は、大成に人生史上最大の驚きを寄与した。
「サッカーの…プロ選手?見かけによらないねー」
「どーでもええけど、けっこーキツいこと言っとるよねーさっきから」隆は目を細くして、プロミスリングを付けた右手でポンポンと軽く、大成の肩を叩いた。
「そう?」そして大成は、自分らしさというのはこういうことなのだろうかと、少しだけ思った。ただ、生まれてこの方、そういう経験がないために、確信はできずにいた。
「僕、今からやるから、空いた部屋で待っとって。それとも…放浪の旅、続ける?」
隆の哀願の眼差しに吸い込まれる錯覚に陥った大成。
「待ってなんかいらんねーもんなー」大成は隆をジロリと睨んだ。
「……」隆は下を向いて、ガクリと肩を落とした。
「手伝ってやるよ!早く終わらせようゼ」
時期外れの大掃除が、突然始まった。
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