銀河は結局、自動車の運転免許を取ることはできなかった。
大成はバイトを終え、銀河と一緒にさわ子と笑子のマンションへ向かう。
「一箇月位だったけど…なんだか凄く懐かしい…」銀河はキョロキョロしながら歩く。
「そっか…免許、取れなかったんだ。Jリーグ始まるの、もうすぐだろ?始まったら…ますます時間なくなるな」
「そうなんです。僕…オリンピック代表候補だし…。そっちにも呼ばれたりしたら、絶望的!」
「まぁ…しゃあないな」
笑子がドアを開け、「はい、モンキー」大成に手渡した。
「モンキー?…犬でしょ?」銀河は首を傾げた。
笑子は指差して「あ、もしかして…新人の、楓…銀河さん?」
「そうだよ。さすがはインパクトの追っかけ!」大成は笑子をたたえた。
「さ、さ、さわ子ぉ〜!ねぇ…楓銀河くんが来てるよぉ〜!サインもらおうよぉ〜!」
さわ子がゆっくりと現れ、銀河を見て軽く会釈をした。「私は…いい。要らない」そう言って姿を消した。
笑子は動揺しつつも、銀河に色紙とサインペンを差し出した。「あ、あのぉ…お願いできますか?」
「は、はい…。こういうの、初めてだぁ…」銀河は喜びを隠せなかった。
笑子は大成と銀河が帰ってから、さわ子に「ちょっと…失礼じゃない?本人の目の前でああいう言い方…」
「私は黒岩キュン一筋なの!好きでもないのにサインもらう方が失礼よ!」
笑子は頬を膨らませてモゴモゴともらした。「…タツローとか富良野瑛美とかには書いてもらったくせに、偉そうなこと言って…」
「何か言った?」
「別にぃ…」笑子は銀河のサイン色紙を抱きしめた。
銀河の素朴な質問。「それって…犬、ですよね?」
「いや、モンキーだよ」
「…?」
「名前がね」
「…誰のセンスですか?」
「俺」
「……」銀河は白い目で大成を見た。
それを無視して大成は話を続ける。「隆がさ、拾ったんだよ。リョクチで」
「リョクチ?」
「…すぐそこの砂浜に捨てられてたんだよ」
「…何か、僕のいない間に色んなこと、あったんですね…。暫く、話についていけないんだろうな…」
「大丈夫だよ!…ったく、要らん心配するな!…これからずっと一緒だろ!」
「…芽室さんには、好きな人いるんですか?」
「!」大成の目と口がガッと開く。
「…女ですか?…男ですか?」
「…お前なぁ…、そういう質問って、ありか?」
「僕は、まだ芽室さん程黒岩さんとは判り合えていないかもしれないけど…きっと、必ず!芽室さんを超えてみせます!」
「はいはいはいはい…どうぞどうぞ、頑張って」
「ホントにそう思ってます?」
「思ってる思ってる…」
「…で、誰が好きなんですか?」
「!」
銀河は再び己の愛する人について語り始めた。「これから…黒岩さんとずっと一緒にいられるかと思うと…嬉しくて嬉しくて!あ…勿論、芽室さんもね」
「…気、遣わなくて結構!」
「ア・イ・シ・テ・ル!」
「オ・コ・ト・ワ・リ!」
二人は笑った。
「でもさ、銀河…四月からって言ってただろ?こっちで暮らすの」
「そのつもりだったんですけど…。開幕は三日後だし…これでも遅い位ですよ。やることいっぱいあったし、引越しの準備やなんかで手間取って…」
「隆には連絡してあるのか?俺は知らなかったぞ」
「…それが、まだなんです…」猫背になった銀河。
「電話、してみよっか?」
「え?…」
「携帯だよ、携帯!」
銀河の心臓がバクバク音を立てた。顔が赤く染まるのが大成にもはっきりと判った。
「おいおい…落ち着け落ち着け」大成は家の中までずっと銀河をなだめ続けた。
銀河は大きく深呼吸をして、オンフックでダイヤルボタンを押し始めた。呼び出し音は銀河の脈を更に早めた。
「もしもし…」スピーカーから隆の声が聞こえる。
銀河はアタフタして大成の服を掴んだ。
「おい、電話つながってるんだぞ!」大成が叫ぶ。
「もしもーし!」隆の催促が部屋に響く。
「ほら、早くしろよ!切れちゃうぞ!」大成は受話器を取り上げた。
銀河はそっと耳に当てる。「も…もし…もし…」
「ん?…誰や?」
「免許、取れませんでした…」
「はぁ?…」
「でも、無事に卒業できました」
「そつ…ぎょう?」
「今日から、宜しくお願い致します」
「……」隆は考えて黙り込んだ。
「僕の声…判りませんか?」
「…判らん!」
銀河はがっくりと肩を落とし、大成に受話器を手渡した。
「もしもし?」
「あ、大ちゃん。今の誰?…いたずらかと思った」
「おいおい…あまりにも可哀相だぞ、それは…」
「ん?…あ!もしかして…」
大成は塞ぎ込んでいる銀河に受話器を押し付けた。
「銀河!銀河やな!おー久し振り!元気かぁ?」
「…は、はい…」未だショックのダメージ回復せず。
「何や?今日から…住むんか?こっちで」
「はい…そうです。お願いします」
「そっかー…楽しくなりそうやな」
「そう…そうですか?ホントにそう思いますか?」
「うん!…そうや!大ちゃんに、《豪華な食事》頼んどいて!」
「ごっ…ごおかな…おしょくじ?」
大成は笑いながら大声で《やだー!》と叫んだ。
「ハハハ…嫌がっとる。大丈夫、今日は腹ペコペコに空かしておくからって、伝えておいて!」
「ハイ!…それじゃあ…」ペコペコお辞儀をしながら銀河は電話を切った。
二十四時間営業のハリミーマート青子朱鞠内店。夜、梅と亀はまだ事務所に残って雑談。勤務は既に終えている。
「今日はほんの少しまともになってたと思わない?」梅は氷を浮かべたレモンティーを口にした。
「うん…でも、まだまだでしょ。モノになるまでには時間かかりそう…」亀は煙草の煙を横向いて吹かした。
「また、明日も早く来るのかな?」
「どうします?…棚とか窓とか床とか、徹底的に掃除でもやらせましょうか?」亀は火を消して、新商品のチョコパンをかじり始めた。
「あ…」梅がビデオカメラのモニターを見上げた。「黒岩だ!」
「また、ツケかな…」
「この前娘にサイン書いてもらったし…ちょっと、挨拶してこようかしら」梅はバッグからブラシを取り出し、鏡を覗いてヘアを整えた。
「わ、私も…」亀はトイレに入り、試供品の香水を体に付けた。
隆は店長に、「大ちゃん…どうですか?」
「うん…よく働いてくれてるみたいだけど」
「そう…ですか…」隆は大成が弱音を吐いたことを店長には言わなかった。
「えっと…開幕、明々後日だね」
「はい…」隆は口を開けたまま白い歯をムキ出しにしてガーッと笑った。
「楽しみだねぇ…対戦相手は…?」
「ナットーズです」
「ああ…水戸か」
梅が徐に姿を現した。普段より1オクターブ高い、裏声がかった「こんばんはぁ…」
「あ、今晩は」隆は頭を下げた。
「もうすぐですね、試合」梅の頬が少し赤い。
「はい」
「この前はサイン、どうもありがとうございました。観には行けないんですけど、娘とテレビで応援しますから、頑張って下さい」
「はい…ありがとうございます」
続いて亀の登場。「今晩は…」
「あ、どうも」
「もうすぐ始まりますね、試合」
「おんなじこと言ってんじゃねーよ!」梅は亀にどついた。
「あ、あのー…ナットーですよね、相手」
「は、はぁ…」
「水戸は…粘っこいですからね…頑張って下さい!」
再び梅のどつき。「くだらねーこと言ってんじゃねーよ!」
隆は笑った。梅と亀にとって、隆の他愛のない一瞬の笑顔が、この店における《お楽しみ》のひとつである。
「この二人が、大成くんに仕事を教えているんだ」店長が隆に言った。
《え…?》梅と亀は店長の一言が理解できず、顔を見合わせた。
「あ、そうなんですかぁ…。大ちゃんのこと、宜しくお願いします!」隆は梅と亀に頭を下げた。
「あ…え…?」梅は言葉に詰まった。
店長が付け加える。「隆ちゃんがね、大成くんがここで働くことを提案したんだ」
「…お知り合い、なんですか?芽室くんと…」亀は隆に聞いた。
「…っていうか、一緒に住んでいますから。これから帰って、大ちゃんの作った《豪華な食事》を食べるんです」
「え!?」梅まんまる目。
「うそ…」亀まんまる目。
「大ちゃん、やる気になってますから…ビシビシとシゴいてやって下さい!」
二人は《ハハハ…》と愛想笑いをした。暫くショックから立ち直ることができなかった。
隆は大きな声で、「ただいまー…あっ…」玄関に漂うのは…もうお馴染みの《カレー》の匂い…。「ま、またや…《豪華なカレー》や…」小声で独り言。
銀河が来た。「お…おかえりなさい!」銀河は隆の顔をまともに見ることができなかった。
「おー、久し振りやな!銀河…元気やったか?」
隆の手のひらの温度が銀河の背中に伝わった。体がビクッと反応してから、最も敏感でデリケートな男性のパーツが硬直していくのをヂンヂンと感じていた。「は…はい…」
「おい…銀河…、顔、真っ赤。…そんなに辛いのか?」
「え…?」
「もう…食ったんやろ?」
「な、何で…。い、い、嫌ですよ!…黒岩さん帰ってくるの、待ってたんですよ!」
「…ふーん…。そっか」
「一緒に…食べたかったから。芽室さんのカレーライス…。黒岩さんと…」
隆は銀河がうつむいているのを見ずに「判った判った。待たせてゴメンな」
銀河は愛しき人の背中を見つめて「そういうんじゃないのにぃ…」
「それでは…楓銀河くんが帰ってきたことを祝って…超!豪華なお食事、《ステーキカレー》を、いただきます!」大成が声を掛けた。
「いただきまーす!」銀河の大きい声が居間に響く。
「い…いただき…ます」ゆっくりと隆はスプーンを手に取った。
「おいしーい!芽室さん!…これ、美味しい!」
「そーかそーか…銀河、ありがとう!」
「うん…大ちゃん!この《肉》、柔らかくて美味い!」
「芽室さん!ホントに…この《カレー》、とっても美味しい!」
大成は一瞬隆をジロリと睨んでから、「そーかそーか…《カレー》が美味しいか、銀河…」
「はい!…お肉も美味しいけど、やっぱりカレーですね!」
隆は誉める対象を間違えた、と後悔。「ほら、さ…うん。大ちゃんのカレーはさ、うん…美味しいのはもう、当たり前やん!だから…ステーキ?めっちゃ合うね、カレーにさ…。いつも食べてるからさ…」
「いつも食ってるから飽き飽きしてて、ステーキ肉がめっちゃ美味く感じるっつーんだな」
「ちちち…違う!…」隆は立ち上がった。
「芽室さん!おかわりしていいですかぁ?」
大成はニッコリと微笑んで「どうぞどうぞ、いっくらでも食べて!」
隆の食事のスピードが落ちる。
「嬉しいなぁ…こんなに美味しいカレー、これから毎日食べれるんだぁ…」
大成は上機嫌。「ハハハ…そうかそうか、うんうん、じゃあ…どんどん作るからな!あ…」
「…どうしたんですか?」銀河はルーのおたまの手を止めて大成を見た。
「一流のサッカー選手になりたいんなら、俺のカレーは食わない方がいいぞ」
「え?…どうしてですか?」
「うん…あるプロスポーツ選手がそう言ってた。六大栄養素が大事なんだって」
あるプロスポーツ選手(=隆)は更に落ち込む。
「それは違います!」銀河は否定した。
「ん?」
「一流になれないのを、カレーのせいにするなんて…おかしいですよ!…だったら、僕が!なってみせます!芽室さんのカレーライスで、一流に!」隆を見つめて、「黒岩さんと一緒に!!」
大成は楽しくて面白くて仕方なかった。「…だってさ、隆。君の後輩は、頼もしいねぇ…」
「でも…誰なんですか?そんなこと言うの。責任転嫁ですよ」
「僕…」小声で隆が打ち明けた。
「…へ?」銀河は再び顔を真っ赤にした。「あっ…でっ…でも、一理ありますよね…六大栄養素…」銀河はうつむいたまま小声で言った。
「…遅いんだよ」モグモグと噛みながら、隆がつぶやく。
銀河の食事のスピードが落ちる。
大成は声を殺しつつ、腹を抱えて笑った。
大成は歯磨きを終えて自分の部屋に戻り、床に就こうとしていた。ゆっくりとドアが開いて、隆の顔が見えた。「大…ちゃん…」
「ん?どした…?」
「ちょっと…いい?」
「ああ…いいけど」
隆はニコッと笑って、大成のベッドの上に座った。「今日の…カレー、ホンマに…美味しかったから…」
「お前…もしかして、気にしてるのか?」
「…そやけど、やっぱ…カレーばっかりじゃ…」
「判ってるよ、んなこと」
「…え?」
「今日は、銀河がどうしても俺のカレーが食いたいって言うから…隆は飽きてるとは思ったけど…ステーキで《豪華》にアレンジして、ステーキカレーにしたんだ。…作ったことなかったけど、まあ…」
「そう…なんだ」
「隆…」
「ん?」
「もっとさぁ…威張っていいんだぞ!」
「…威張る?」
「俺は…何のためにここにいるんだ?…お前のためだろ!」
「…大ちゃん…」
「確かに俺は俺で、ここにいるのには訳がある。でも…俺より、お前だろ?…違うか?」
隆はじっと大成を見つめた。
「お前が一流選手になる、きっかけになりたい。ささやかでも…でなきゃ、意味ない…。俺はいつまでたっても、ハンパ者だ…」
「大ちゃん!僕は…大ちゃんのこと、傷つけたんやあらへんかって…」
「いくらでも傷つけろよ!…それで隆が一流になれるなら…いくらでも傷ついてやるよ!」
「…僕は…、大ちゃんのこと、大好きやから…大切にしたいんや。もう…大切な人、失いたくないから…」
大成は口をキュッと塞いだ。枕を手に取り、隆に投げた。「時間、かかりそうだな。こんなんじゃ…」
「…え?」
「まだまだ…」タツローさんにはかなわない…。隆とは、本当の意味での《友》にはなっていない…。
「どういうことや?」隆には判らなかった。
「隆が一流選手になった時に、その答えは出る…」
隆は首を二・三回傾げて、「とにかく、僕が…もっとサッカー上手くなればええんやね!」
「…そーゆーこと!…銀河と一緒にな!」
…側耳を立てていた銀河はホッとした。「芽室さん…僕のこと、忘れていなかったんだ…」だが、大成が以前にもまして隆とより深い《関係》になっていることが羨ましくもあり、悔しくもあった。
「芽室さんも…黒岩さんのこと、大好きなんだよな…きっと。いいなー…相思相愛で」銀河は言葉の選択を誤っていることに気付いていない。
「僕も…言われたい…《大好き!》って…黒岩さーん!」ドア越しながら、銀河は隆との距離の遠さを実感していた。
翌日、大成のコンビニ・アルバイト三日目。「おはようございまーす!」三日間中最も大きい声で梅と亀に挨拶した。
「今日は…何をすればいいですか?…あ、そうそう…缶詰のところの棚、汚れているので掃除します!」
「芽室くーん…いいのよいいのよぉ…」亀の声は気持ち悪い位に優しかった。
「…へ?」
「そうねー…今日は、レジと揚げ物だけでいいわ。昼は結構よく売れるから…特にポテトは切らさないようにしてね」梅の口調も命令的ではない。
「…は、はい…判りました」拍子抜け・肩透かし…。大成は気が抜けて少しフラついた。
梅と亀が変わったのは、当然、隆が原因である。大成が隆の知り合いでなければ、一種の《いびり》は今も続いていたはず。…大成はそのことを知らない。知らなくていい…。
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