1990年11月8日 神奈川大学 法学部 2年E組 しりうちせいご
上告理由は、憲法36条を根拠として次のように言う。
「死刑こそは最も残虐な刑罰であるから、新憲法によって死刑に関する規定は当然廃除されたものと解するべきである」。
刑法199条・200条を適用して死刑を言い渡した判決は違法である。
生命は尊貴である。一人の生命は全地球よりも重い。死刑はあらゆる刑罰のうちで最も冷厳な窮極の刑罰である。
死刑制度は常に、国家刑事政策と人道上の双方から批判と考慮がある。死刑制度とその運用は常に時代と環境とに応じて変遷している。
憲法13条で、生命に対する国民の権利については、立法その他国政上最大の尊重を必要とする旨を規定している。しかし、同時に「公共の福祉」という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限ないし剥奪されることを当然予想している。
憲法31条では、法律の定める適理の手続きによって、生命を奪う刑罰を科せられることが明らかに定められている。
即ち憲法は、刑罰として死刑の存置を想定し、是認したと解すべきである。
死刑の威嚇力によって一般予防をなし、死刑の執行によって特殊な社会悪の根元を絶ち、これによって社会を防衛せんとしたものである。また個体よりも全体に対する人道観を優位とし、結局社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性を承認したと解せられる。
刑罰としての死刑そのものが直ちに憲法36条の残虐な刑罰に該当するとは考えられない。
ただ執行の方法などがその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐と言わねばならない。
将来もし火あぶり,はりつけ,さらし首,釜ゆでの刑のような残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそまさに憲法36条に違反すると言うべきである。
ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる。国民感情は時代によって変遷する。
正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代が来たならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるに違いない。しかし今日はまだその時期が来たとは言えない。
死刑廃止は民族的文化の雰囲気の中に生まれる民族確信が死刑を必要としなくなった時に初めて実行される。
死刑は凶悪でかつ危険な犯罪者から、我々の国民社会を維持する最も有効的な、唯一の手段である。
死刑による恥ずべき死が社会に伝わるであろうという連想は、犯人、即ち利己的な人間の抑制観念を強める効果がある。
死刑の非回復性、即ち一度執行されたらもう回復不可能という性質は、その威嚇力を一層大にする。死刑は他の刑罰が果たし得ぬ役割を務めるのである。
無期懲役刑,有期刑は囚人に放免または恩赦の期待を与え、その通りになることが通常であるから、その威嚇力は死刑に全く及ばない。
人間の有する最も価値の高い生命を侵害しないという約束を有効かつ正義にかなった方法で担保するには、違約者(殺人犯人)自らそれに相当する価値、即ち自己の「生命」を提供すると約束する、というのが相当である。
我が国民性が環境の影響を受けやすいこと、人格の現れとして生命,身体の尊重の念が薄いということを示している。
死刑をもって処断されるような殺人でさえ罪の意識が浅く、環境の影響の下で行われ易いということになれば、もしかしたら死刑になるということが犯人にとって阻止的な要素になる。死刑を存置するかどうかはその時の社会事情による。社会事情が混乱の中にあり、いつ凶悪な犯罪が行われるか分からない場合には、死刑はまたその意味で必要な刑罰である。
人類の精神と刑罰の公平の点より、死刑は罪悪である。社会自らが罪を作り、そして殺す。
凶悪犯が他人の生命を奪った際、その者に対して死刑を望むのは、それはやり場のない怒りを犯罪人に向けるというメカニズムを、国家制度の美名に隠れて動かすということであり、またそれが死刑だ。
殺すことは確かに悪いことであるが、国家は模範となるべきであり、人(それが殺人者であっても)の生命を尊重する第一人者たるべきだ。
加害者に死刑を行えば被害者側は応報的満足が得られる。しかし被害者,加害者双方とも柱石(頼みになる大切な人)を失うことになる。死刑は国家社会に窮迫者を生み出す。
国家が死刑を存置するなら、この問題を解決せねばならない。それができないなら、むしろ無期刑に代え、加害者が被害者の家族を救済する方法をとるべきだ。
一度誤判によって執行されると、真犯人が明らかにされなければ誤判とされず、後日その誤判であったことが発見されてももはや回復することはできない。死刑は挽回不可能刑である。そのような回復不可能な刑罰は避けなければならない。
殺人犯人は刑罰を考えずに殺人を行う。激情的殺人者は行為の魅力に幻惑されて他のことに気付かないし、計画的殺人者は既に一切を覚悟しているので死刑に威嚇力はない。
殺人犯人の中には精神病者が非常に多い。精神異常者は責任無能力のため刑罰が科せられず、威嚇力は問題にならない。
殺人行為者は非常に多くの場合、行為直後に自殺を企てたり、自殺する。他人,自己いずれの生命の価値も尊重しない者に死刑をふりかざしても何の威嚇にもならない。
反対に治安状態の悪い時は死刑にあたる罪を増設してこれに対抗するのが例である。現に今までに、一旦死刑を廃止しながらそれを復活させた国々があるが、その当時の社会的背景を探ってみればこのことはたやすく理解されるところである。
刑罰の犯罪抑制力を論ずるのに、現に罪を犯してしまった者についてだけ考えるのでは正当な評価はできない。その抑制力が直ちに有効に発揮された時は、現に犯罪行為に出ようとする者でもそれを思いとどまるのであるから、その者は犯罪人となることはなく、従って犯罪学者の観察の対象となる機会を持たないことになる。
アメリカ合衆国では死刑を廃止した州が存置州よりも殺人率が僅かに低いということであり、ヨーロッパでも死刑廃止国は平均して低いといわれる。アメリカの同一州において、廃止前と廃止後の殺人率がどのように増減したかを比較すると、廃止しても存置時代と比べて特に殺人犯罪の増加は見られなかったという。諸外国の経験では、存置時代よりもかえって殺人率が減少したという例も存在する。
死刑に威嚇力を認める場合、それは国民一般に普遍的に、有効に作用できるものでなければならない。死を恐れない動機から行動に走る殺人犯に、「人を殺すと死刑になる」ということで、反対動機を形成することは不可能といわなければならない。
ベッカリーアは、「人の心に深刻な印象を与えるのは、強烈な一時的な印象(死刑)よりも持続的な印象(無期懲役刑)による方が一層容易であり効果的である」という。犯罪を防止(威嚇)するのは、刑罰の重さではなく、犯罪の発覚の容易さであり、刑事訴追の確実性にあるのではないか。
司法当局は死刑判決に対し特に慎重を期している。しかしながら万に一つでも誤判の可能性があるならば、死刑を存置することはできない。モンテスキューは、誤判を「犯罪自体よりも、もっと犯罪的な判決」と称している。
人間の誤りなきことが証明されるまでは、死刑は廃止すべきである。死刑は絶対に誤判を救済しない。裁判官も同じ人間である。冤罪をいかにして救済すべきか、救済されるべき人が死んでしまってはもう道はない。
捜査の不備,違法。
自白の偏重,共犯者または共同被告人の供述の信用性,偽証,目撃証人の誤認,鑑定の内容ないし評価,証拠法の不備・不都合の有無。
弁護活動の不十分,検察官の証拠開示の拒否。
裁判官の経験不足,事件の予断,訴訟指揮のあり方,自由心証(裁判官が審理において、事実認定について心の中に得た確信または認識)の誤り。
誤判は起こりうる可能性を秘めている。証拠それ自体にも錯誤があり得る場合があり、誤判は人間判断の誤り易き性質を具有している不正確を示すものに他ならない。「疑わしき時は、被告人の利益に」…しかし十分な証拠もないまま有罪判決が下されることが間間ある。
拷問や偽証をした捜査官は処罰されず、むしろ出世の階段を登っていく。重大な誤りを犯した検察官や裁判官が罷免された例はない。
このうち再審請求手続が最も困難であり、「開かずの門」「再審の壁」といわれるのは、この再審開始決定を手に入れるまでの苦難のことである。
有罪の言渡しを受けた者に対して、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」を、「新たに発見した時」という要件の厳しさが苦難の原因だ。「新たに発見した時」は証拠の新規性と呼ばれる要件で、有罪判決確定後に入手した証拠を指す。問題は「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」、つまり「証拠の明白性」で、これが「開かずの門」の中核をなしている。
裁判所は従来、再審を確定判決の権威と人権を調和させる制度だとして、「証拠の明白性」の意味を、その証拠だけで無罪を明白に証明できなければならない、とした。つまり、真犯人が出現しなければ再審は認められない(真犯人が名乗り出てもそれを信用しない裁判所すらあった)ことになる。
しかし後に、再審にも「疑わしきは罰せず」の適用があり、確定判決に合理的疑いをいだかせる証拠があればよい、となった。免田栄さん,松山事件の斎藤幸雄さん,島田事件の赤堀政夫さんなどで死刑再審は大きく前進した。しかしギネスブックにも載った世界最高齢の死刑囚・平沢貞通は37年間に17回も再審を請求したがいずれも棄却され、1987年に95歳で死亡した。
「流血残虐極まりない殺人の現場を目撃した直後の者は、死刑を否定する気持ちにはなれないだろうし、死刑判決後完全に改悛して執行台に昇る前に祈りを捧げている死刑囚に対しては死刑を肯定する気持ちにはなれないであろう」…
私自身、身内の者や親しい友人・恋人が殺されたとしたら、その加害者を許す自信はない。それどころか、殺してやりたい、死刑になればいい、そう考えるにちがいない。
しかし、それでも私は死刑を廃止すべきだと考える。それというのも、「罪を犯した者が罰されないことがあっても、罪を犯していない者が罰されることは絶対にあってはならない」からである。
この格言(?)を私は大学入学後どこかで聞いたのだが、私は法律(特に刑法)を、このことを踏また上で勉強していこうと、いつからか決めた。
私が死刑を否定する理由は殆どこれひとつといってもいいかもしれない。
存置論者のいう威嚇力は全くないとはいえないであろうし、廃止論者のいうように人を殺した人の命も尊重すべきと考えるし、ここまでならどっちとも言えないのだが、決め手は誤判・冤罪である。
死刑が「残虐」かどうか、なんてことは私にいわせればどうでもいいことで、憲法で絶対に保障されるべき、無実の罪で死刑となり殺されるであろう人(全ての人間がその可能性を持っている)の命を守るために、死刑は廃止すべきである。
補助的ではあるが、死刑よりも、絶対に娑婆に出られない無期懲役刑の方が苦痛であると思う(死ねば苦しみも終わるので)。
これも一応私の死刑廃止の理由であるが、誤判に比べたら些細な問題である。
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